創造生活 Day 1

しばらく自由に文章を書いてきたが、しかし結局のところ生活の報告、いわば日誌みたいなものを書くだけだった。日々の生活の中から何かを学んだり、感じたりするわけだが、高い感度で向き合えないことを不満に思っていた。それならば、生活のことではなくて、エッセイみたいに、物語や考察を書き連ねればいいのかもしれないが、今の僕には十分な想像力・創造力が備わっていない。

だが、こうやって毎日、日誌を書いてきているのだから、日誌を書く能力は確実に向上しているだろうし、ほとんど習慣になっていると言っていい。であれば、日誌を何らかの方向性に導いてあげれば、全体として何かが出来上がるのではないか。現に、noteで連載を行なっていた「修論日誌」はそういう試みとして、一応うまく行っていたと思う。(いつかちゃんとまとめられたらいいのだけれど。)

では、いま僕は何を目指しているのだろうか。あと数日で博士課程に進学することになっている。(実情はまだ見えてこないが)研究で競って、仕事を獲得していかなければならないという雰囲気がある。……いやだ。僕は昔から競争に乗るのが苦手なのだ。誰かと同じレースをして、他人よりも高い成果を出す。そういう営みが性に合っていない。負けず嫌いすぎるのかもしれないし、ストイックすぎるのかもしれない。いずれにせよ、僕は同じレールを走ること、走らされることに耐えられない。

とはいえ、現実問題として、仕事がなくては生きていけない。金銭的な意味ではもちろんそうなのだが、仕事=タスクがなければ退屈でダメだ。仕事。僕は何を仕事にしたいのか。ものづくりを仕事にしたい。そうだ。高校生の頃、進路について同級生が考え始めた時期に、先生とも面談する機会があった。将来どうなりたいか、と聞かれて、アーティストになりたい、と答えた。当時から音楽を作っていて、もちろん音楽を作ることにも関心があったのだが、それだけに限定したくなかった。本を書いてもいいし、演技をしてもいいし、絵を描いてもいい。とにかく作品を作って生きていきたいと思っていたのだ。なぜかといえば、僕は「知」が苦手だったからだ。僕の高校は〈超〉がつくほどの進学校で、周りには僕よりもはるかに賢い人たちが数え切れないほどいた。ありがたいことに、学内で競争するようなムードもシステムもなかったから、劣等感に苛まれることはなかった。けれども、多感な時期に自らのアイデンティティを獲得するためには、知からは降りなければならなかった。僕は感性に向かった。誰よりも音楽を聴いて、誰よりも文学を読み、週末には美術館に通った。こうやって生活するのはものすごく心地よかった。

大学入試前の半年間はたしかに辛かった。といっても、予備校にも通わず、学校帰りにはCD屋に寄って情報を集め、電車では単語帳の代わりに洋書を読む生活をしてたから、大した苦労ではなかったのだろう。単に、ある枠組み(点数や知識の量)をインストールするのが辛かっただけで、勉強そのものに苦労したわけではない。とはいえ、他人と同じ枠組みを自分の中に入れるのは僕にとってはやはりキツいことだった。僕はアーティストになりたいという思いを強くした。

大学の4年間は音楽に特化することで、アーティストへの道が開けるのではないかと思っていた。だから、毎日曲を作って、定期的にライブをして、努力を重ねた。いまとなっては、やり方が下手だったと思うし、努力の指針も間違っていたと分かる。とはいえ、僕は(たぶん)上手に失敗できたし、そこから多くのことを学んだ。そしてなにより、多くのかけがえのない友人や先輩たちと出会えた。

ところが、いざ「食べていく」という段になると、僕の努力は全く及んでいないことが分かった。なにせ、「食べていく」ための努力を全くしていなかったのだから。いい曲を作ればどうにかなると妄信してしまっていた。「食べていく」ということを考えたくなかったのだろう。音楽に純粋に向き合うことで救われると思ったが、そんなバカみたいな話ではないのだ。

そこで僕は哲学を修めることに決めたわけだが、どういう因果か、僕が研究対象に選んだデリダは、知の枠組みの外部を考えようとする哲学者だった。僕はデリダしか知らなかったからデリダを研究し始めただけなのだが、「引き」が非常に良かった。自由に論文を書いていい気がしたし、実際にしばらくは自由に論文のようなものを書いていた。それが誤りだったと気づくのは修論を執筆する段階になってからなのだが、とはいえ、僕は自由な文章を後から整理することで論文を書き上げたのだから、必ずしも誤っていたとも言えない。

ここで僕は二つの用語を区別したい。〈枠組み〉と〈形式〉だ。枠組みとは、多くの人を同列に評価するための物差しだ。研究でいえば、何本論文を書いて、どこで発表したか。どういう賞を受賞したか、といったことが評価の〈枠組み〉になりうる。他方で形式とは、ある成果物に関して、他人のものとある程度「同じ」であると言わしめるものである。たとえば論文は論文の形式を持っている。タイトルがあり、著者名があり、問いと論証と答えがある。多くの場合脚注があり、参考文献が末尾に記される。

僕は枠組みを受け入れるのは苦手だが、形式に関してはそうではない。割とすんなり受け入れることができる。というか、形式を定めないと手が動かせないとさえ言える。そして、とくに芸術的・感性的な場面では、形式を満たしてさえいれば、それを評価してくれる人は必ずいる。額縁に入れて美術館に飾ってしまえば、それは絵として鑑賞されることになり、それを好きな人は必ずいるものだ。反対に、いくら絵を描いても、SNSにアップするだけでは、絵画として認知されづらいだろう。したがって、当然のことながら、それは絵画としての価値は持てない。

では、アーティスト、つまり、作品を作ることを生業にしている人々は、具体的にどんな仕事をしているのか。僕の仮説はこうだ——ある形式に沿った作品を、大量にせいさんすること。これがアーティストの仕事だ。肝心なのは、作品の「質」というのは、自分がどれだけ満足しているかではないということだ。あるいは、評論家にどれだけ褒められるかということでもない。評論家陣の評価はおそらく〈枠組み〉のベクトルに属する問題だ。だが、作品の品質において(あるいは僕が作品を作るということにおいて)必要なのは〈枠組み〉ではない。「質」とは、どれだけ形式に適っているかだ。だから、努力すべきなのは、どれだけ満足のいく作品を作るかではない。反対に、どんなに満足がいかない作品であっても、〈形式〉に当てはめて「質」を高めることに注力すべきだ。勇気の要ることだ。しかしこれこそが、アーティストの仕事なのだ。

満足いく作品を作るのはもちろん悪いことではない。だが、そこに注力すると、作品の「量」を落とすことになる。「質」x「量」が仕事の価値なのであると仮定しよう。そして「質」とは〈形式〉によって測るべきものなのであった。自己満足はまったく関与しない。仕事の価値を高めていくために費やすべき労力は、質と量を高めることに向けられなくてはいけない。

これからの日記は、「アーティストとして仕事をする」ということを考え、実践するためのものだ。それは競争の〈枠組み〉から逃れるための実践でもあるし、ひょっとすると生業を作るための実践にもなるかもしれない。毎日の日記はこれほど長くなることはないだろう。日々、どんな創造を試みたのかを記していく。