創造生活 day 19

朝、生物の専門家のお誘いで『大哺乳類展』を上野に観に行く。解説を聞きながらゆっくり観て回って、非常に勉強になる。ほんとうにたくさんの種類の哺乳類が展示されていたが、僕が日常で出会う哺乳類はほとんどいない。せいぜいホモサピエンスと犬くらいだ。都市生活というのは、動物を排除することで成り立っているのかもしれない。虫や鳥が限度で、野生の動物が暮らせる環境ではない。とはいえ、植物や微生物など、目に見えない仲間たちには囲まれているはずだ。彼らが居心地よく暮らせる環境が、人間自身にとっても居心地のいい環境なのではないか。利己と利他が重なり合うポイントが理想的だ。もちろん、人間同士の関係においても。

午後は上野公園にビニールシートを敷いて昼寝。小説を読んだり野球の速報を見たりしながらゴロゴロする。そして夕方に高校の先生、北さんの絵の展示を同級生と観に行く。母kが通った学校の教育が具体的に表現されていて、素晴らしい環境にいたのだと思い出す。

一緒に行ったメンバーと北さんを交えて夜ご飯を食べる。北さんの人生の歴史を聞く。北さんは情熱に溢れていて、やりたいことをどんどん実現させている。そしてその自主性を生徒にも伝播させるのが使命だと感じているみたいだ。北さんの話を聞いて、僕は考え込んでしまう。僕がやりたいことってなんなのだろう。

哲学の研究は好きだ。これはやりたい。だが、僕のモチベーションを言語化したときに、それは「哲学の研究をやりたい」ではない。もっと深い欲望があるはずだ。というのも、たとえば野球をやっている少年は「プロ野球選手になりたい」と考えたり、「メジャーでホームラン王になりたい」と思うかもしれない。そういう欲望のアナロジーとして、ある哲学研究者は「大学の教授になりたい」「学会で賞をもらいたい」と考えるかもしれないが、僕は現状そうは考えていない。

おそらく、その先のことがあるのだ。学会で賞を貰えば仕事につながりやすくなるかもしれないし、大学でポストを得られれば生活が安定する。それは重要なことだ。だが、その先に何かがないと虚しい。教授になって何をしたいのか?

いま一度考え直そう。たしかに僕は哲学を愛している。と同時に、文学や音楽や美術も愛している。なぜか。僕は人類が紡いできた文化が心の底から好きなのだ。この長い歴史の中で、デリダという天才が、サリンジャーという天才が、ジミヘンという天才が、生まれてきたこと、彼らに僕が出会えたこと、それが堪らなく嬉しい。そして、ひょっとすると何らかの仕方で、僕も彼らの仲間になれるかもしれないということ、あるいはすでに彼らの仲間であるかもしれないということに喜びを感じている。

こういう文化は、人間が生命を存続させるために必要なことではまったくない。偉大な哲学書を著したところで、誰かの空腹が満たされるわけではない。病気が治るわけでも、雨風が防げるわけでもない。しかし、人間として生きるということは、生命維持の外側に、何かを作っていくことなのだと思う。文化は人間が人間として生きるために必要なのだ。文化は生命の余白であり、この余白に人間の本質があるかもしれない。

余白の新しい彩り方を教えてくれるのが天才だ。そして、上でも書いたように、僕たち一人一人が、ひょっとすると天才なのかもしれない。このことに、みんなは気づいているだろうか。この喜びを、みんなは感じられているだろうか。

残念なことに、余白はいつも侵食されてしまう。「かくあるべし」というロジックの網目のなかに巻き込まれてしまう。余白の余白たる所以、すなわち「自由」が侵されてしまう。僕は余白をしっかり余白として示し、自分なりに彩ってみたい。そうすれば、みんなも余白を余白として見ることができるだろう。それは何よりも楽しいことであるはずなんだけれど、みんなはこの楽しみを享受できているだろうか。

僕のやりたいことは、余白を余白として示し、余白に僕なりのやり方で色を着けてみることだ。そのやり方の一つが哲学であり、また別のやり方が音楽であり、絵であり…、といった具合なのだ。

自分のやりたいことが少し見えてきた一日だった。