ひさしぶりの更新だ。「日記」を銘打っていながら作業ログのようなものを毎日書いてしまっていて、それでは文章としてネットに放流する意味もないだろうと感じてしまっていた。自分のノートに書き留めていればいいのだ。じゃあ、自分のノートにごくプライベートな文章を書こう。ということになり、僕は小説を書き始めた。
特に中高の6年間を通して、かなりの量の小説を読んだ。それも、ほとんどが純文学だ。ドストエフスキーとか、ヘミングウェイとか、村上春樹とか、カフカとか。だから、小説は盛り上げなくちゃいけないとか、起承転結がなければいけないとか、そういう感覚はまるでない。純文学は、まったく面白くないものが評価されていたりする。極論を言えば、文字が並んでいればそれは小説だ。あるいは、他の形式、たとえば哲学書や図鑑のような形式を備えていなければ、小説と呼んでいい。それくらいのゆるい認識を持っている。
だから、僕が書いているものは、得体の知れない文字の塊にすぎないかもしれない。ごく個人的な日記が記されていたり、碌でもない持論が展開されていたりする。小説というよりも、「エッセイ以下のもの」と表現した方が正確かもしれない。そしてあまりに赤裸々なので、誰にも見せることができない。僕は親しい人たちとの関係において、かなり素直に物を表現する方だと思う。そうするように心がけている。賭けている、と言ってもいい。それでも、実際に小説を書いていると、何かを隠しながら生きているのだということを思い知らされる。誰にも言えない欲望が渦巻いている。ひょっとすると、小説を書くことで、そういう欲望を肯定したり、発露させたりするための勇気や覚悟が養われているのかもしれない。
小説が日の目をみることはないかもしれない。世に出すにはあまりに散らかりすぎているから、あとから編集をする作業が必要だ。これは僕が修論を書いたときと全く同じやりかただ。とりあえず文章を並べてから、あとで成形する。ある程度の量のレゴブロックを集めてから、大きな作品を作る、といった具合に。
「外向け」の小説にするにせよ、単なる欲望の掃き溜めにするにせよ、とりあえず量を書くことにしている。それで、毎日700-2000字ほど、コツコツ書き溜めている。大学ノートに書き付けているが、このノートが埋まる頃には何か形が生まれているかもしれない。
別に小説でなくてもいいのだけれど、何か「商品」を作りたいと思っている。当てにしていた奨学金に落ちてしまったし、そろそろ将来のことも考えないとなぁ、と感じるからだ。ちょうどさっきまで読んでいた本(東浩紀『ゲンロン戦記』)で、次のように書いてあった——だれかが哲学を生きるリスクを負わなければ、哲学は有閑階級の大学人の遊びにしかならない。身につまされた。僕は「有閑階級の大学人」を体現してしまっている。そろそろ学生の身分から外に出たい。では、僕にとって「哲学を生きる」とはどういうことなのだろう?考え続けないと答えは出ないだろう。ゆっくりでいい、でも、切実に考えなければ。
「器用貧乏」という言葉がある。まさに僕のことじゃないか、と思う。そして僕がデリダの哲学に認めている生き方というのは、人は誰しも「器用貧乏」的であるということなのかもしれない。この貧しさと、堅牢な豊かさ——後者はデリダの中で政治と結びついているように思えて仕方がないのだけれど——をどう両立させるか、というのが問題なのであって、僕がデリダのテクストと向き合う中で突き付けられている課題でもある。哲学的な課題であり、実存的な課題である。