2024/09/19

毎日2000字の文章を紡いでいるのだが、それをどうすればいいのか、まったく見当がついていなかった。書くことは好きで、一生やめたくないのだが、その先のことをまったく考えずに書いてきた。

昨日、ポッドキャストのゲストにも来てくれた〈ちゃんゆり〉に会って、公開するように勧められた。たしかに、公開してしまえば、とりあえず「作品」として世に解き放つことができる。ここのところ、自分のやりたいこと・やっていることが社会にどう役に立つか、というのが全く分からなくなってしまった。いや、分かったためしなどなかったのだが、何らかの形で社会の役に立たないと、実際問題として、お金が稼げない、ということを感じ始めたのだ。そこで編み出したとりあえずの一手は、自分のやっていることを人前に晒す、ということだ。どうすればお金が稼げるか、とか、どうすれば自分の活動を「仕事」にできるか、ということに関して、あまりにも疎すぎる。センスも経験も欠けている。だから、現状の能力ではそういうことは考えられない。ひとまず出来ることは、他人が見れるところで活動する、ということだと思った。社会の中に一つの場所を持つことができれば、ひょっとすると誰かが価値を見出してくれるかもしれない。少なくとも、現状では価値として認められていないものを——僕の活動は現状ほとんど経済価値を持っていない——価値あるものとして提示するというアクロバットよりは、はるかに実現可能性が高い。

人前でやる、ということの一つの実践がYouTubeであり、別の実践がこのブログになる。本当は音楽を作ったら即座に 誰かが/誰もが 聴けるところに曲を置いておくべきなのだろうし、陶芸作品にしてもそうなのだろう。近いうちにYouTubeで喋ろうと思っていることだが、僕はプロジェクトというものが苦手だ。目標を定め、それに向けて手続きを踏んでいく、というやり方が肌に合っていない。何かをひたすら継続することは得意だし、興味を持ったことを吸収するスピードも早い。けれども、そういう営為を何らかの目的に従事させるのはまるでダメだ。だから僕が取る手段は、それまでの積み重ね=アーカイヴを後からまとめ上げる、というものだ。あたかも、全てがある目的をもって為されていたかのように、あとから一貫性をでっち上げる。自分の快楽だけが問題なのならば、わざわざ一貫性なんか持たせなくてもいい。だが、他人から見て理解しやすかったり、受容しやすかったりするようなものに仕上げるためには一貫性があったほうがいい。あるいは僕自身が、自らの活動に自覚的になるために、何らかの一貫性を持たせた方が便利だ。そう、あくまで「便宜的に」一貫性を持たせているに過ぎず、それは最初から企図されたものではないし、そもそも厳密な意味でそういう一貫性があるかどうかも怪しい、というのが実際だ。

こういう哲学を展開したのがデリダだとすれば、僕はデリダに強く共感する。彼の鍵概念である「エクリチュール」の機能の一つとして、作者の意図を超えたところで作用してしまう、というものがある。あらゆる言動は、その行為主体の当初の意図とは違う形で力を発揮してしまう可能性がある、というのだ。昨今では「悪意ある編集」みたいなものがメディアの問題として取り上げられることが多いが、極言すれば、そういう事件・事故はあらゆる言動に本質的に(可能性として)備わってしまっている。

僕自身の活動は、当初のコンテクストや意図を超えて、あとから違う形で効力を発揮する。自分の活動さえも、後付けで「編集」できてしまうということだ。それに、どうせ意味が変わってしまうかもしれないならば、最初から強い思想を打ち出して活動する必要もない。自分の意図とは違う形で受け取られてしまうかもしれないのならば、受け取ってくれる人の視点に多くを預けてしまってもいいのではないか。

実は、東浩紀が同じようなことを『ゲンロン戦記』で書いている。彼が興した会社「ゲンロン」は、当初の狙いとは違う価値を持ってしまている。というより、当初の狙いが甘すぎた、という反省がある。だが、それを彼は肯定している。肯定できるようになった、というのが正しいのかもしれない。昨日、ちょうどNewsPicksで東浩紀が喋っている動画を見つけて観てみたのだが、そこでも同じようなことを言っていた。受け取られ方は全く予測できないから、自分が良いと思うものを発信していくしかない、というのだ。そういうスタンスだから、彼は一定の客層にリーチする、というような発想がない。良いと思うものを発信していけば、それに共感してくれる人が自然につくだろう、それを待つしかないだろう、というのだ。

人生やキャリアについて、あまりにも無計画であることに、僕は少し焦っている。しかし、そういう生き方は高校生の頃からすでに予感していた。高校生の頃、自分のキャリアプランについて書く、みたいな作文の宿題が出たときに、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を引用した記憶がある。最後のページにこう書いてあるのだ。 ‘’I mean how do you know what you’re going to do till you do it?’’(「僕が言いたいのは、何をするつもりか、なんてのは、それをするまでは知りようがないだろう、ということだ。」)我ながら、高校生が書く作文にしては気が利いている。僕はサリンジャーが描くホールデン少年に甚く共感した。ホールデンと同じくらいの年頃に、この小説に出会えて良かった。たぶん、僕もホールデンも、こういう自分の性向ゆえに不安を感じながら、そう生きる以外に道がないことも分かっている。われわれは賢明な星に生まれなかった。到来する欲求や要求に、その都度、応じていくしかないのである。たとえば、〈ちゃんゆり〉の勧めに素直に応じてみる、というふうに。