2024/09/21

朝から散歩をし、YouTubeの動画2本を収録、それから文献を一本、読み終えた。あまり集中力は高くなかったけれども、まあ、こういう日もある。実を言えば、昨日も全然集中できなかった。眠い。一日中眠い。秋の訪れ。身体の緩み。僕の身体は緩むよりも締まることが多い気がする。緩んでくれる時にちゃんと緩ませてあげることが大事だ。

さっき読んだ文献では、デリダの自由と政治の関係が論じられていた。著者の読解にはあまり賛同できなかったが、自由の概念、そして民主主義や政治の概念を関連づけて論じるのは(古典的であるとはいえ)いい取り組みだと思った。僕も近々、発表の原稿を書かなければならないので、参考にしたい。僕はデリダの自由概念について、ひとまずある程度の解釈を持っている。それを政治の中に組み込めば、なかなかいい発表になるのではないだろうか。実はそれなりの足場をすでに持っていて、それをどういうふうに拡張していけば良いかを考えるのが、打つべき手だろう。ゼロから新しい何かを立ち上げるのではなく、僕が持っているものを、新しい方向に引き延ばしてみれば十分だ。

政治について論じるとき、どうしても実際的な議論から始めたくなる。これは仕方がない。だが、デリダが政治を論じるのは、かなり形而上学的なコンテクストに依ってである。だから、デリダの政治思想に「まず」関心を持って、そこからデリダの思想全体に入っていくと、僕が読むデリダとはまるで違うデリダ像が浮かび上がってくるのかもしれない。だが、僕のスタンスは、何よりもまず、形而上学から始めなければいけない。哲学の思考法について問われれば、僕は次のように答える。「哲学とは、いま現れているような世界が成立しているための条件から出発して思考する営みである」。世界がこのようであるのは、いかにして可能なのか。それを探求するところから、すべての思考を立ち上げていくという、非常にノロノロした営みなのである。

対して、実際に生きていく上では、われわれはむしろ、いま現れている世界をどのように活用しうるか、ということを考えているのではないか。たとえば、ご飯が食べたい時に、近所のスーパーを利用すれば手っ取り早く食材が手に入る、と考えるだろう。そして、スーパーに行くのさえ億劫な人が多いのならば、「ネットスーパー」なるサービスを展開すれば、多くの人が喜んでくれるし、利用者が増えてお金が稼げるだろう。このように、現状を活用していく未来志向でわれわれは生活しており、たぶん、ビジネスはその延長にある。

もっと卑近な例を考えよう。誰かに恋をしたとする。ふつうは、どうすれば彼/彼女と仲良くなれるか、ということを考えるだろう。そのために、現状、彼/彼女とはどういう関係にあって、相手は私のことをどう思っていて…ということを分析——というのは少し硬すぎるワードチョイスだが——する。つまり現状をどう変えていくか、ということを考えるわけだ。

哲学者はそうじゃない。そもそも私が彼/彼女に恋をしているとはどういう状態なのかを問う。この気持ちは何なのだろう。この気持ちが私の中で立ち上がってくるのは、どういう仕方でなのだろう。そもそも私は自分の気持ちを理解しているだろうか?自分の気持ちとは?そして、理解するとは?こういうふうに、根本的な問いに遡っていくのが哲学の営みだ。これでは当然、恋は進展しない。現状の解釈が豊かになるだけだ。

「政治哲学」だろうが、「知覚の哲学」だろうが、なんでもいい、ある特殊な領域についての哲学は(それでもなお、それが哲学と呼びうるとして)、おそらく、もっとも根本的な問いにまで遡らずに思考することができる。完全に趣向の問題だが、僕はそういうスタンスを取れない。もっとも根本的なところから始めるべきではないか。少なくとも、今論じている問題の手前には、本来どんな問題が考究されるべきなのか、について、自覚的であるべきだ。とはいえ、僕自身がそれを達成しているとも言えない。自分の研究において、僕が根底だと信じているところの、さらに奥が無いとも言い切れない。おそらくあるのだろう。でなければ、僕が史上最も深いところまで思考を進めた人間になってしまう。そんなに深く潜れるほどの力は僕にはない。デリダに共感することのひとつとして、われわれは表面を漂うことしかできない、という思想がある。少なくとも僕の生き方はそうだ。

さて、こうやって文章を書きながら、僕はふたたび文学を必要としているかもしれない、と思い始めている。文学が自由なのは、文学の裏側にいかなる「底」もないからだ。文学は徹底的に表面的である。それは何かについての思想ではないと思う。むしろ、その無思想こそが言祝がれるべきで、だからこそ、僕は村上春樹に共感したのではなかったか。彼は無思想な時代に生きるということについて、非常にツルツルとした文章を紡いでいるように見える。オースターやカフカもそうだ。ヘミングウェイだって、フィッツジェラルドだって。なにか思想を表現するのであれば、まさに思想を表現すれば良い。それは哲学がもっとも得意とするところだ——もし思想が、半ば主観的な「主張」のごときものを含意しないのだとすれば。思想は感想ではない——理性と感性という古典的な二分法を採用することが現代でも許されるのならば。ところで、僕の文章は文学たり得るのだろうか。