ファイターズがホークスに二日連続で負けた。クライマックスシリーズ、王手をかけられている。このままでは今シーズンが終わってしまう。もう少し粘ってくれ、ファイターズ!
もう夜も遅いし、疲れている。疲れすぎてネットサーフィンさえする気力が起きない。夜に勉強をすると眠れなくなるから、哲学には手をつけないでおく。仕方がないから文章を書く。文章ならば無限に書けるからだ。
今日は陶芸教室に行った。ひたすら掃除をして肉体労働をしたから疲れているのだ。しかし、心地よい疲労だ。学会発表が迫ってきて、追い込まれている。頭脳労働・精神労働ばかりが続いており、頑張っても出口が見えないという地獄。もっと酷い地獄はいくらでもあるのだろうが、地獄であることに変わりはない。地獄から目を背けるために、毎日のようにタバコを吸ってしまう。愚かだ。何重にも愚かだ。地獄だと感じてしまうほどムキになっているのも愚かだし、地獄だと思っているのに逃げないでいるのも愚かだし、ストレスを解消するための手段がタバコなのも愚かだ。フラフラと自由気ままに生きている、というイメージを持たれるが、誰に言われるでもなく、過剰なプレッシャーを背負いながら生きている。自由気ままに生きればいいのに。プレッシャーに負けないほどの精神力を備えているということなのかもしれないが、どこでポッキリ折れるかわからない。天真爛漫に生きた方がエネルギーを発揮できるに違いない。
「哲学者見習い」を名乗っているが、それが悪いのかもしれない。哲学者見習いなのだから、哲学の勉強を頑張らなければいけないし、研究で成果を挙げなくてはいけない——そう感じてしまっているかもしれない。本心では哲学に賭けるつもりなんかまるでないのに、あたかも哲学に邁進しているかのように演じることになっている。それとも、哲学を仕事にしたいのに、言い訳をこねくり回しているだけなのか?否、それは違う。哲学で食べていくことを、少なくとも展望としては持っていない。たまたまそうなるぶんにはいいが(いや、いいのか?)、狙ってはいない。かつて、音楽の師匠にこう言われたことがある——ビートメーカーはキャリアプランとして目指すものではない、と。哲学者、あるいは少なくとも、哲学研究者についても同様のことが言えるだろう。今後、少子化は進行する一方だし、人文学の大学における価値はますます低下していくだろう。ポストの獲得を目指す若手研究者たちの競争は激化し、学会でいかにプレゼンスを発揮するか、ということに躍起にならなければいけなくなる。そうすると、哲学を含めた人文学の研究者たちは、社会における役割、社会との関わりを模索する余裕がなくなり、人文学の社会的な価値はさらに下がっていく。このことは当然、経済的な価値を低下させることにもなる。
半分は文句・愚痴であり、半分は事実だ。あるいは、事実を言うという仕方で文句を垂れている。学会発表が終わったら、もっとソーシャルな活動をする。その余裕はあるはずだ。人と会って遊び、人前で活動する。ちゃんと「ひと段落」だせる。
陶芸教室で肉体労働をして疲れている、という話だった。頭脳労働・精神労働の疲労よりもはるかに心地よい。寝ればいいだけだから。タバコもいらない。今日は帰宅前に公園に寄って、懸垂をしてきた。本当に健康的な1日だ。それに、教室ではスタッフの仲間たち——僕は「友達」と感じ始めているが——ともコミュニケーションを取れている。孤独にプレッシャーと向き合っているわけじゃない。
孤独にプレッシャーと向き合う哲学の営みに意味があるのだと感じられるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。経験も知性も足りない。あるいは哲学がプレッシャーとの戦いだという見方がそもそもおかしいのかもしれないが、この認知の歪みが矯正されるのにも時間がかかるだろう。要するに、現状をもっと朗らかに生きたいということなのだ。僕はそれを選び取れるはずだ。たぶん「ロックであること」が標語として機能するようになる。ちょうど、「行くだけ」がファイターズの標語として機能しているように。