生活がシンプルになってきていて、精神状態が安定している。ただ毎朝同じ時間に起きているだけなのだが、それがいい。その時間に起きるために前日の夜の過ごし方をある程度調整するようになる。あまりにも興奮するようなことはやらないし、スクリーンもなるべく見ないように心がけている。こうすると必然的にリラックスすることになる。リラックスするというのがずっと苦手だった。何をすればいいか分からないからだ。何かをしたくなってしまう。だが、難しいことはなかった。興奮することをやらなければいいのだ。ギターの機械的な基礎練習をしたり、研究と関係ない本を読んだり、ラジオを聴いたり。
今日もいつも通り7時半に起きて散歩をし、この文章を書いている。このあとは研究のための時間になっており、ワクワクしている。研究をダラダラやらなくなったのも生活の変化だ。研究のための時間を確保して、そこでガーッと集中する。今までは寝ても覚めても研究のことがチラついていて疲弊していた。やるべきときに本気を出せばいいのだ。そのために時間割を作って、その通りに過ごしている。
時間割を作ると何がいいかというと、嫌なタスクや予定を断れることだ。「すでに用事が入っている」と正当に言い訳できる。やりたいこと、やるべきことに集中するためのコツかもしれない。とりあえず3週間先までは予定を仮で埋めておくことにしている。
時間割をこなしながら見えてきたのは、おそらく、効果的に使える時間には上限があって、それを超えると生産量はほとんど上がらないということだ。5-6時間も集中すると、それ以上は大した成果を挙げられない。そこで無理をすると翌日に疲労感が残り、さらに能率が下がる。最大の生産性を発揮できる範囲内で、集中して物事に取り組むのが最適解だ。そうやって過ごしている時、もっとも満足感・達成感がある。
研究は時間を確保して集中してやる、ということにした。そうすると、電車の中で文献を読んでいた時間が浮く。これは今後変化する可能性もあるが、ひとまずは電車の中で文献を読んでいない。この時間で研究と直接には関係のない、読みたい本を読むことにした。1,2週間続けてみたが、視野が広がっている気がする。小説を読むこともあるし、哲学書を読むこともあるのだけれど、自分の研究やその他の活動をより広い文脈の中に位置づけるには、こうやっていろんな文脈に触れるのが効果的だ。研究に没頭しているうちは、自分の研究の価値など分かるはずがないのだ。
こうやってスコープを広げて研究を捉え返しているのが心地よい。たぶん、哲学者の思想形成の歴史とか論争とかを追うのが好きじゃないのは、こういう性向に因る。そういう、いわば「基礎研究」みたいなものは、大きな文脈に位置付けづらい。僕が苦手なだけだのか、一般的な困難なのかは判断しかねるが、たとえばデリダの基礎研究はデリダ研究者の外に対して価値を持つように感じられないのだ。もちろん、基礎研究が重要だということは理解しているし、ましてや基礎研究に全く価値がないとは思わない。だが、自分の仕事としてはどうも選べない。僕にとって哲学が魅力的なのは、それが物事を最大限に大きく捉えることを可能にしているように思われるからだ。ひとつひとつの議論や、ひとりひとりの哲学者について、僕はそれほど深く没頭することはできない。もっと大きな網でガバッと行きたいのだ。
だからこそ、僕は哲学と実社会との関係にいつも気を配ってしまう。哲学がきちんと物事を説明できているのであれば、社会で起こっているそれぞれの事象の構造を捉えるのに一役買ってくれるはずだからだ。それに、僕はケチだ。僕のやっている哲学がなるべく多くのことを説明し、ともすれば世界のありかたを何らかの仕方で変革させるものであってほしい。ひとつの見方がなるべく多くの事態に関わりうること——これこそ「コスト・パフォーマンス」ではなかろうか。哲学に費やしているコストがなるべく多くのことに繋がってほしいのだ。(そして哲学を超えて、僕がやっているひとつひとつの活動が、すべて高い「コスト・パフォーマンス」を発揮してほしい。)ここでの「パフォーマンス」というのには、金銭的なリターンも含まれる。僕の哲学研究が経済的な価値を持ちうるとすれば、それはどういうものになるのか。まだ全然明確には見えていないが、しかし常にその視点は持ち続けている。せっかく少なくない時間とお金を費やしているのだから、ちゃんとリターンが得られるように設計したい。もし僕が十二分にお金持ちだったら(たとえば宝くじが当たったりしてしまったら)基礎研究に邁進して満足できたかもしれないが、幸か不幸か、お金を稼ぐ必要性は常に感じている。とはいえ、生きるのに困るほど欠乏しているわけでもないのは、やはり幸せなのだろう。この環境が続く限りは、研究と経済を繋ぐ、という視点を維持できそうだ。もし状況が変わってしまったら、僕はそもそも研究をしないかもしれない。その意味で、研究をある種の「仕事」だと思っているのだ。
時間割の中で集中して研究に取り組むことで、研究がどんどん楽しくなってきている。何かに夢中になるというのは心地よいことだ。最上の幸福の一つと言っていいかもしれない。これを持続可能なものにするために、やはり広い視野で自分の研究を捉え直す必要があるだろう。ひょっとすると、ある種のタスク管理=運営の中に研究を位置付けるというこの身振りが、広い視野を維持する方途なのかもしれない。これが、坂口恭平さんが言うところの「生きのびるための事務」なのだろうか。