最近伸ばしかけの前髪が煩わしすぎて困っていたが、グリースでしっかり目に固めたら目に垂れてこなくてよかった。大成功。明日は散髪に行くが、まだ前髪は切らない。
バイトへ。英語の語彙を取り戻そうと、歌詞を印刷してダウンコートのポケットに忍ばせる。分からない単語を電車で調べ、その曲を聴く。また小説も読みたい。早めに家を出たので、バイト先の2駅前で降りる。歩数を稼ぐためだ。毎日1万歩をサボり気味だったが、やはり1万歩歩いていると調子が良い。外の空気を浴びるのが気持ちいい。たかだか東京だ。極寒にはなるまい。
バイト先の新人がヒップホップ好きだということで話がはずむ。ラップを録音するように勧めた。
バイト中の暇な時間にデリダを読む。少しでも進めることが大事だ。コツコツやる。
帰宅後は先週のドラマ『HOT SPOT』を観る。面白い。夢中になった。その後、いつも通りフランス語の練習をする。毎日積み上げる。とはいえ無理をしている感じもなく、楽しく練習できている。
風呂に入っていてふと考えたことがある。Podcast『人間生活』からレーベルを作ろう、という話を先日した。(次回の『人間生活』で語られる。)このレーベルで具体的に何を目指しているのか?たぶん、「みんなをアーティストにする」ことだと思う。みんながそれぞれ、その固有性を発揮できるような、そういう場を作りたい。そして、みんなを死なせないことが重要だ。ここで言う「死」には二つの意味がある。一つは、文字通り、生物学的な死だ。自らの固有性と直面するとき、人は死にたくなるらしい。これは当たり前といえば当たり前で、というのも、自分の死こそが自分に固有なものだからだ。生の方は、たとえばどんな仕事をしているとか、どんな人と出会ったとか、そういう仕方で描写され得るが、その描写自体が変わらなければ、自分じゃなくてもいい。つまり、平たく言えば、自分と同じ属性を持ってしまっていれば、自分じゃなくてもいい、ということになる。しかし死の方は、明らかに自分だけを狙っている。ここに固有性の源泉がある、という論を展開したのはハイデガーだが、僕はその考えは正しいと思う。この意味で、固有性=「死」と対面しながら、それでもなお生きながらえること——これを僕は目指している。「死」のもう一つの意味は、一般的なものに取り込まれない、という意味だ。「現代フランス思想」(と大きく言ってしまうが)では「作者の死」というのがしばしば問題になる。芸術作品の作者は、究極的には作品の中には現れない。作品は自立してしまう。作品が作者の手を離れた瞬間、作者は作品において死んでいるのだ。しかし、僕は作者を新たな仕方で蘇らせることができると思う。その肝にあるのが経済、すなわち作品が何らかの仕方で交換される、ということだ。——この話はまた今度にしよう。少し長く書きすぎた。