福島の祖父母の家に家族で行っていて、日誌の更新をしていなかった。せっかくの休暇だ、徹底的にオフ・モードにする。
祖父母は90歳を超えてもなお元気だ。背筋もしゃんとしているし、頭の回転も早い。(安全性能のついた)新車を買ったというから驚いた。一年に一度しか会えていないが、家族が一堂に会するというのは嬉しいことだ。本当にこれ以上の喜びはないんじゃないか、という気さえする。最近は家族とか国家についてよく考えているが、要するに「個人」として自由でいたって仕方がないだろうということだ。そこには大した喜びを見出せない。生まれながらに規定されてしまっているコンテクストを、愛すべきものとして守ることに希望を感じる。僕はちっともリベラルなんかじゃないのかもしれない。たとえば、同性婚や夫婦別姓について考えてみると、今までは「個々人が幸せなら何でもいい」と思っていた。個人レベルでは今も考えは変わっていない。だが、「そもそも家族とは何なのか?」「そしてその延長にある国家とは?」ということを考えてみると、ひょっとすると、個々人のレベルとは違う位相で思考を始めなければいけないのではないか。ウクライナ戦争およびトランプ大統領の就任以来、リベラルでコスモポリタンな世界像はもはや絵に描いた餅でしかない。自らの安全を保障し、国家としての存続を守る、ということを真剣に考えなくてはいけない。そして国家を真剣に考えることは、主権を真剣に考えることでもある。さらに、家族の在り方を規定する役割は、従来宗教が担ってきた。トッドは現在の西洋を「宗教ゼロ状態」と表現するが、もう一度宗教を考え直す必要がある。伝統的な一神教でも、カルトでもないような宗教のあり方——これは国家と主権と密接に関わってくることになる。これこそが、僕がデリダを通して思考し始めていることの一端だ。
今日は旅の疲れでずっと寝ていたが、夜はフランス語のレッスンを再開。日が空くと言語のリズムに慣れるのが難しい。一日中ダラダラネットサーフィンをしてしまったので、夜はデジタルデトックス。目を休めて我流でヨガをする。