# 2025/04/06

夜、頭が混乱してきて危なかった。考えすぎだ。風呂に入っていても頭が休まらなかった。重症である。パニックになりそうだったが、ふと、「いまここ」に集中することを思い出した。未来のことは分からない。考えるだけ無駄だ。つねに最高のパフォーマンスを上げるためには、その場その場で徹底的に集中するのが良い。サッカー選手が言うような「良い準備」なんかやらなくていい。本番にのみフォーカスすればそれでOK。

こういうマインドのシフトで心の平穏が到来した。自己防衛のための思考が働いたのだろう。それ以上考えていたら脳の体力がもたなかったのだと思う。自由に思考しているように見えて、実は心身の反応として思考しているに過ぎないのかもしれない。現実世界と心身を交渉させるための思考。ある種のバイオリズムでしかない。

「いまここ」に集中すると、端的に言って思考が止まる。なぜなら、思考とは言語的な営みであり、言語は時間の幅を必然的に持っているからだ。明日も理解できるような可能性が原理的にはあるからこそ、思考というものは意味を持ちうるのだ。対して「いまここ」だけしかないのならば、それは反復して理解することはできないということだ。時間的な幅が消失する。こういう純粋な現在——時間の幅を持たない「いま」——における思考のことをデリダは「イディオム」と呼ぶ。この命名は言い得て妙で、デリダの言語センスはやはり素晴らしい。イディオムというのは特定の語の組み合わせが、通常とは異なる意味を産出するケースのことを言う。つまり、特異なコンテクストにおいて特異な意味が産出される場合に「イディオム」が看取されるわけだ。これをラディカルに読み替えると、「いまここ」という超特異なコンテクストにおいてのみ機能しうる表現のことを「イディオム」と考えることは、あながち突飛な表現ではない。(ちなみに、日本語で同様の表現に「慣用句」というものがあるが、これはコンテクストの特異性を一切含意していない。)

さて、このようなイディオムは端的に言って存在しない。それは記号の本性に反するからだ。記号はつねに反復して機能しうる。イディオムはそうではない。

偶然の一致か、脳内のシナプスの働きか、僕が明日執筆する原稿は「いまここ」としての「現在=現前」に関するものになるだろう。