朝はまったくやる気が出なかったのだが、郵便局に行くタスクがあって、歩いて行った。日を浴びたのと、軽く体を動かしたので元気が出てきて、帰宅後すぐに執筆にとりかかる。自分自身の心理的なハードルをぐっと下げることができていて、文章がよく進む。迷っているところもそのまま書き残しておいて、指に思考させる。いまはアイデア出しの段階だから、プロダクト的な完成度はまったく考えなくて良い。どれだけ文字を増やしていくかだけが課題だ。引用ばかりでもなんら問題ない。論理や問題提起はあとからでっち上げるものだ。最初から論理性や問題意識を発揮しなくて良い。気になることを気になるままに書いていく。そういう作業だ。
文字数のノルマを2000字に設定し、夕方3時か4時頃に今日の分を書き終える。背中が痛む。頭をフル稼働させるとこうなるのだ。軽くおやつを食べ、長い散歩へ。少し離れたバッティングセンターまで行き、2セットやって帰宅。かなりリフレッシュされる。夕食後は天井を見て過ごし、30分フランス語のレッスンをこなす。
散歩中にふと、フランス語でものを考えていた。まあ、まったく大したことではなくて、先日あったシチュエーションにおいて、フランス語でどう話しかけるか、みたいなことをイメージしていた。まったく無意識にやっていた。毎日のようにフランス語のレッスンをやっているおかげか、脳がフランス語に寄ってきているのかもしれない。本当に嬉しいことだ。前までは、外国人に話しかけるのは英語だ、ということが当然だったが、いまはむしろフランス語の方が相応しいとさえ錯覚している。英語は生活圏内に溢れ過ぎていて、あまり外国語だという感じがしないのだ。フランス語は、字義通りにも比喩的にも、「遠い国」の言葉だという感覚がある。僕はフランス語をほとんど理解できないし、フランス語話者の知り合いもほとんどいない。そういう「遠い言葉」を話す人たちを「外国人」だと感じる。そして、そこに近づきたいと思う。ひょっとすると、デリダの思想の核心に触れたい、というのも同じ気持ちかもしれない。分からないものをわかるようになりたい。これも散歩中にふと考えたことだが、僕はデリダが分からなくてよかったと思っている。最初からデリダに共感していたら、論文なんか書けなかっただろう。分からないからこそ問いを立てることができるのだ。ある哲学者の文章がわかってしまったら、分からないふりをして問いを立てなければいけない。そんな文章を書くのは苦痛だ。まあ、分からない文章を読み続けるのも、かなり苦しいものはあるのだが。