授業が始まった。参加者の中で、先生と最も付き合いが長いのが僕になる。それで、授業運営上の手伝いを任された。いやはや、また仕事が増えてしまった。しかし信用されているというのは悪いことじゃない。かつて、「お金とは信用である」と習ったことがある。お金がなくても信用があれば生きていけるということになる。むしろ、お金は信用の外在化であって、内在的な信用のなさを誤魔化すだけにさえなりうる。アメリカを見てみれば分かる。世界の基軸通貨ドルを無限に印刷できるアメリカは、その資本だけが信用されているのであって、それ以外の根拠をもってアメリカを信用するのはほぼ不可能だ。
ところで、僕は自分をあまりにも信用していない。だから未来の自分の代わりに現在、大量に思考し作業しているのだ。これが疲弊の原因だ。いまやるべきことはいまやれば良くて、未来にやるべきことは未来にやればいい。いますべてを引き受けろ、というのはデリダの思想の中核にある気もするが、その点については「そんなキャパなくね?」と応答しよう。
多くの人が、僕が信用に足る人間だと見做してくれているのに、僕自身は僕を信用していない。ケチ、あるいはよく言えば倹約家なのは、自分がお金を使うに値する人間だと思っていないからかもしれない。しかし僕が絶望しないのは、僕自身の過去については信用しているからだ。これまで自分が積み上げてきたものについては評価している。良くやっている、と思う。そして、現在についても、僕自身が設定するハードルは超えられないかもしれないが、誰かが設定するハードルは優に超えられるということを、経験から知っている。自分に厳し過ぎるのかもしれないが、しかし、デリダを信じるならば、思考はノンから始まるという。そしてそのような思考を僕は楽しんでいる。僕がなぜこんなに力強いノンの攻勢に耐えられるのか、まるで分からない。じつは大してノンを突きつけていないのかもしれない。ということはつまり、大して思考していないのかもしれない。