正確には思い出せないが、僕の哲学の師匠が書いた著作で、次のように始まる本がある。「この本はあなたに向けて書かれている」。哲学的な効果を狙っているだけなのか、それとも本気でそう思って書いたのかは分からない。いずれにせよ、僕にはこういうふうに言葉を書き出すことは出来ない。この書き出しが優しさなのか暴力なのか(優しい暴力なのか?)は推し量れないが、こういう風に胸を張って言える人間でありたかったと思う。僕は言葉を信じすぎている。「あなた」よりも言葉の力の方に頼っている。
いや、それも違う。「あなた」に頼ってばかりで、重要なことを何も言葉にしていないのかもしれない。いかにも真剣な面持ちで形而上学的な議論に文字数を費やしているのは、本当に言うべき小さくて凡庸な日々の事柄を言うことを避けるためなのかもしれない。そんなこと、わざわざ言わなくても、と。
「あなた」を信じることは、「あなた」に言葉を届けることなのではないか。僕は結局、「あなた」も言葉も、どっちも正しく信じられていなかったのかもしれない。
それでもなお、僕は師匠に納得できない。しかし師匠の方が善く生きているのかもしれない。決して僕を納得させない仕方で。