# 2025/04/23

早朝から夜まで学校でバイトをする。ほとんどの時間が「待機」に当てられており、その間に学振の書類を書く。お昼休みにお弁当を買いに行ったのだが、そぼろ弁当が茶色すぎてウケた。鶏そぼろと焼き鳥、唐揚げ、うずらの卵、ポテトサラダ。蓋を開けた瞬間に「え?!野菜とかないの!?」と驚く。せめてもの野菜ジュースを買いに行く時間もなく、夜まで働いてから帰りに体に良さそうなお菓子を買って帰る。

「待機」の時間には書類をずっと書いていただけではなく、最近抱えている悩みについて「もっといいやり方があったんじゃないか」とか「まだ何かできることがあるんじゃないか」とか、そういうことを考えている時間のほうが長かったかもしれない。僕は感情をコントロールできるという立場はとらないが、しかし感情の出力はある程度コントロールできると思っている。たとえば怒りを感じたときに、その感情は抑えられないにしろ、黙るのか怒鳴るのか、あるいは殴るのか歌うのかは選択することができる。そうだとすれば、ここには技術=アートがあるはずで、なんらかの仕方で思いがけない出力ができるはずなのだ。芸術=アートを、感情表現の特異な表出と捉えることも不自然ではないだろう。このクリエイティヴな表出を人間関係や社会のなかでやれれば、何かが起こるかもしれない。僕はそれを奇跡と呼ぶことに躊躇はない。どうすれば奇跡が起こせるか、いつも考えている。いつも祈っている。しかし奇跡が起こらなかった場合、それは誰の責任なのだろう?たぶん僕の責任だ。僕はそれを引き受ける用意がないかもしれないが、しかし本来責任とはそういうものだ。予定された約束を守るとか、期待に応えるとか、そういうことは責任ですらない。誰もが等しく割り当てられている負債のようなものでしかない。責任とは、奇跡を祈り続けることに対する、予期不可能で返済不可能な生の重さのことである。