# 2025/05/26

待ちに待った休日。俺みたいな仕事とプライベートが曖昧な動き方をしている人は、意識して休みを作らにゃいかん。仕事と遊びの違いがもはや分からない。外向けに遊べば仕事になるし、そうでなくてもいつかの仕事に活きてくる。こんなんじゃおかしくなるに決まっている。遊び過ぎて疲れているのか、働き過ぎて疲れているのか分からない。

午前中はとにかくダラダラして、昼になってから昼食を買いに行く。だるくてフラフラするし、頭が回らなくて何を食べようか決心がつかない。こりゃダメだな、と思いながら本屋に寄って、ベルクソンの『物質と記憶』を探す。見つからない。最近ベルクソンが気になっている。デリダの次はベルクソンだな、とも思っている。俺の哲学には実感がまるで欠けていて、ベルクソンはそこを補ってくれそうな気がしているのだ。そう思っていたところ、先日読んだ論文で、デリダ研究者の仲間である石原さんがちょっとベルクソンに触れていて、「だよな!」と思った。デリダが語りたがらないことを、ベルクソンは「もうちょい語れるでしょ」という身振りで表現しようと頑張っている印象。ベルクソンに疎すぎて、何にそういうことが書かれているのかは分からない。とりあえず『物質と記憶』かなぁ、という勘で、Amazonで注文した。

石原さんの論文は俺の考えともすごく近くて、しかしアプローチが全然違くて、興味深く読んだ。俺は精神分析の議論には立ち入らない(立ち入れない)ので、もう少し言語論寄りの話を展開しているのだが、石原さんは精神分析に挑んでいて心強い。たまに会って意見を交換したい。

結局昼はローストビーフ丼(なんと600円)を買ってきて食べる。疲労回復にはタンパク質!食べてからラジオ「Lazy Sunday」を聴き(月曜日だけれども)、ベッドで昼寝する。3時間くらい寝たと思う。夕方に散歩に行き、夜はヨガをして整える。ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読み始めた。いつも序盤で挫折するので、最終章から。通読にこだわらなくなってから、本が読みやすくなった。特に難しい本なんかを読んでいるとき、分からないアリバイを作ることができるのがよい。つまり、俺が理解できないのは、途中から読んでいるからなのだ、と言い訳することができる。しかも、たぶん、そういう読み方をしていれば、序盤もそこそこ読めるようになってくるんじゃないか。まだ歴が浅いから、出鱈目な順番で通読するというのは成し遂げていないが、いつか分かるだろう。ベルクソンが届いたら、出鱈目に読んでみる。本当はデリダだって出鱈目に読めばいい。