学校へ。まだ軽いめまいがある。まあ昨日よりマシだし、家で休んでるほどのことでもない。雨が防水スプレーをした靴の中まで沁みてくる不快感を抱きながら、ゼミに向かう。
めまいを感じながら、電車の中でベルクソンの『物質と記憶』をめくる。最近試みている不真面目読書——出鱈目にページを開いて気になるところだけ読む——をしていると、興味深い箇所があった。イメージ(仏語風に「イマージュ」と書かれていたかもしれない)には2種類あって、一方がその都度の特異なエピソードとしてのイメージ、他方がそれぞれのイメージが統合され、より一般化されたイメージだという。朗読を何度も繰り返して暗記を試みるとき、一回一回の朗読がイメージとして保持されるのだが、他方で、〈当のテクストの朗読〉というより一般的なイメージに統合されていくのだという。そして後者の方が想起されやすいから、後者ばかりが問われるのだ、というような話。雑な読み方をしているからまったく検討はずれかもしれないが、それこそ「イメージ」としてこういう感じだった。不思議なことに、ベルクソンを読んでいるとめまいがおさまった。面白い本が読めると体にいいのかもしれない。
学校からお寺に移動すると、住職が僕の論文を読んだ、と知らせてくれた。嬉しい。しかも、文章の上手さを褒めてもらった。つくづく感じるのだが、僕は哲学をするよりも文章を書く方が得意だ。たぶん、向いていると思う。この傾向は、スポーツや音楽が好きなのと通じている。その場でものを作り上げていく即興性みたいなものが性に合っている。じっくり文章を読んで、その背後にある文脈を整理し、他の研究者の言っていることにも目配せし……というような文献管理的なやり方は全然好きじゃない。とはいえ、思考自体は好きだし、筋もそんなに悪くないと思う。論文に要求されるスタイルと、僕の得意なことをどう折衷させるか——ここが腕の見せ所なのだろう。