タスクの分解について

 

「タスクは小さく分解して」というのはよく知られたテクニックだ。今日は夕方まで用事がなくて、しかしタスクはいくつかある、という状況だ。こういう日はまるでやる気が出ない。だから、朝からタスクの分解を意識して動いている。しかしこの文章を書いている現在、タスクの進捗はない。フランス語の単語の勉強をしようとおもい、単語カードと辞書を机の上に並べた。それからスマホで野球のゲームに興じ、文章を書きたくなって、いつもどおり「創造生活」を書き上げたところだ。

やりたいことをやっているのだからいいじゃないか、と言われるかもしれない。たしかにそうだ。だが、野球ゲームは良い手じゃなかったように思う。やり始めたら止まらないし、「すごくやりたい」という性質のものでもない。しょっぱなからこうやって文章を書けていればよかったのに!なぜそうできなかったのか?まず、そういうアイデアがなかった。「フランス語の単語をやらなければ」という意識が強く働いて、「自分のやりたいことをやる」という発想に至らなかったのだ。こういう日はやるべきことよりもやりたいことをやったほうがいいのに。

文章を書き始められなかった理由はもうひとつある。手間が多いのだ。PCを立ち上げ、文章エディタを開いて、内容を考える。この手間に耐えられなかった。だが、これは「タスク」ではない。「とりあえずやるべきこと」ではないのだ。であれば、「分解せよ」という命法は、やりたいことにも適用されるべきだ。考えてみれば当たり前のことだ。「世界中の人間を幸せにしたい」と願う志高き人間は、その野望をそのままには扱えない。そこに至るまでの小さなステップに分解しなければいけない。

楽しく幸せに生きるためにはむしろ、やりたいことをこそ、分解してやればよいのではないか。やりたいことを日々継続するために、小さなステップに分解して考えていく。これこそが、坂口恭平さんが『生きのびるための事務』で言っていることで、僕が「創造生活」で実践しようとしていることなのかもしれない。

ところで、ロバート秋山のラジオ「俺のメモ帳」は、性欲を発散することを「分解」と呼んでいる。ある時期のフロイトが唱えたように、われわれの欲望(欲動?)がすべて性のエネルギーで説明できるとすれば、性欲を分解することは、やりたいことをステップに分けていくことなのかもしれない。が、他方で、分解された性欲は、一旦減衰することになる。ひょっとすると、分解しきらないこと、あるいは、つねに分解の途上にあることが重要なのかもしれない。

たしかに、成し遂げようと思っていることの全ての手順が見えてしまえば、そこに向けてのモチベーションは下がってしまう。ゴールが見えてしまった途端にやる気がなくなる、というのはよくある話だ。われわれは計画を立てた途端に満足してしまうのだ。

そこで、やはり『生きのびるための事務』を参照することができるかもしれない。坂口さんは、「将来の現実」を構想することを唱える。10年後、どういうスケジュールの日常を送るかを考え、何でお金を稼ぐかを考える。だが、「どんな作品を作るか」「どこで誰と暮らすか」などは考えない。つまり、枠組みだけ作り、内容は考えないのだ。だが、本当に大事なのは内容ではないか?そうなのだろう。しかし、内容を規定してしまうと、それが達成される未来が見えて萎えてしまうか、達成されない現在に対してフラストレーションを抱えることになるか、のいずれかだろう。

一番大事なところを「あそび」にしておけばよい。大事なところを「分解」しないように気をつけるのだ。どうすれば「あそび」を続けられるのか、その枠組みだけを「分解」するのだ。

この観点で、僕の今日のタスクを考えてみる。タスクを分解するのではダメなのだった。僕のやりたいことは何か?「勉強」というカテゴリーに入ることができれば嬉しい。このとき、「勉強」の時間と場所をまず決める。それから、その内容を考えればいいのだ。

内容を考えるためには、間(ま)が必要だ。ほっと一息、それから、「さて、何をしようか」。この間をつくるのが苦手だ。ついスマホやPCをいじってしまう。散歩に行けば良いのか。朝食前に散歩に行けば、それが「間」になる。メモ帳をポケットに入れて、散歩しながら今日やりたいことを考える。枠組みは前日のうちに決めてしまってもいいかもしれない。

ちょうど明日も予定がない。朝の散歩をしてみよう。