2024/06/05

さのみきひとさんのライブで踊り狂って、創造力が刺激される。良いライブを観ると感じるのは、第一に、「生きててよかった」、そして第二に「俺にも何かできるかもしれない」。さのさんはアンビエント/ノイズっぽい、実験的なライブをやっていた。空間をたっぷり使った音の中で、時折言葉を挟む。俺はふとデリダの講義を思い出した。デリダは自らの思想を伝えながら、その根底にある「秘密」を伝えているのだとどこかで言っていた。ここでいう「秘密」とは、それを口に出すことよってこっそり伝達できるような類のものではなく、むしろ口に出すことさえできない、その中身がなんなのかさえわからないようなもののことだ。あらゆるシステム、あらゆるロジックの根底にはそのような「秘密」が横たわっているという。そしてそのような秘密を伝えなければ、システム全体の有様を伝えることができないのだ。だからこそ(という論理展開が妥当なのかについては、俺は確信が持てていないが)、デリダは奇妙なテクストを記し続けたのであり、奇妙な講義を展開していたのだ。

俺もそのような「秘密」を示唆するようなテクストの実践ができるかもしれない。そして、それをたとえばライブのような場でパフォーマンスすることができるかもしれない。さらには、それが音楽と結びつくことがあるのかもしれない。そう思わせてくれるライブだった。

このライブは前座が芸人の街裏ピンクさん、ゲストが打楽器バンドのLa Senasだった。言語がだんだん薄れていって、最後に打楽器の単純で動物的なイメージが高まっていく、という構成が心地よかった。昔から打楽器が大好きなのだ。だからビートを作っている、というのもあると思う。究極的に言えば、音楽に情感を求めていない。リズムさえあれば良い。メロディもハーモニーも、じつはあまり関心がない。俺は多分、メロディが発してしまう「意味」みたいなものに耐えられないのだ。なんとしても意味から逃れたくて、美術館に行ったり、「脱構築」の哲学者を研究したりしているわけだ。意味が嫌なのはおそらく、それが人を「共感」に巻き込もうとしている気がするからだ。分かり合えてしまっては俺たちひとりひとりの個別性が失われてしまうように感じる。決して分かり合えないところに、それぞれが全く異なる他人(フランス語ではtout autreという)が共存する価値があるのではないか。

リズムの場合は、お互いの素性も、感情もわからないままに共鳴できる。単なるエネルギーの噴出としての音楽に参加できるのが良い。しかも、それぞれがそれぞれに、リズムに乗り、踊ることができる——それぞれ固有の身体性において。それはあくまでも物理的なものだから、各人が混じり合い、溶け合うことはない。それぞれがそれぞれの領分を守っていて、それでもなお共存している。俺はそのような空間に救いを感じる。