2024/08/24

朝食を済ませてすぐに執筆に取り掛かる。ここのところ、とにかく書きたい、という気持ちが湧いてきている。これをちょっとした「マイブーム」で終わらせない工夫が大事だが、とりあえずは楽しむことだ。今年の目標を、(遅ればせながら)「わんぱく」にしたのはそのためだ。真面目さでがんじがらめになってしまってきた。もっとラフに、目の前のことを楽しむ気持ちを持たなければならない。——まただ、「XXせねばならない」。いや、しかし「楽しむ」に関しては、唯一「ねばならない」を適用していいのかもしれない。楽しまねばならない。これが至上命令だ。

今日も今日とて書きたいことがない。それでいい、基本的にはそこから始めるしかない。まえに「日刊弁慶」(週刊弁慶?)を継続していたときは、散歩をする時間がアイデア探しの時間だった。今はあてもなく散歩をしてアイデアを見つけ出してくる余裕がないかもしれない。丸一日、何もすることがない、何もしなくて良い、という状況がつくれずにいる。研究は進めなければいけないと感じてしまうし、雑務だって探せばいくらでもある。そんな余裕のなさ——これは仕事がない、ということとダイレクトにつながっている——から一旦身を退ける時間として、この執筆の時間は贅沢なのかもしれない。

余裕のなさが仕事のなさとつながっているとはどういうことだろうか?仕事があれば、日々やるべきことは比較的明確だ。そしてそれさえやっておけば、他は何をしてもいい。そして僕のイメージする「仕事」は、誰か他の人から課されるものだ。だから、その人の言いなりになっていればいいわけだ。自分の欲望に正直になる時間は別で確保すればいい。だが、僕の場合は他人から課される仕事は基本的にない。自分でやりたいことを選びとり、目標を設定し、そこに向かっていく必要がある。要するに自律する必要がある。だから、たとえそれがつらい道程でも、自分がやりたいことだ、と言って正当化しなければならない。自由に選び取ったはずの目標に拘束されるわけだ。さらに悪いことには、それが名目上、自由に選び取られた目標なのだから、その外部に自由を確保する理由が生まれない。僕はすでに自由だ、にもかかわらず自由を確保するとは何事か?かくして僕は、自らに課した「仕事」によって生活を埋め尽くされる。余裕がなくなる。

だからこそ、楽しまねばならないのだ。自分で選び取った目標と道程を楽しまなくては、自分で選び取ったこと自体が悪いことになってしまう。それに、パフォーマンスとして、態度として、これが楽しいことなのだと示すのは、ある意味で社会に対して善である。というのも、他人や規範の言いなりになることの方が心地よいのだとすれば、万人が同じ規範を遵守する全体主義に陥りかねないからだ。個性もへったくれもない。互いが交換可能な分子として、不気味に整然とした社会を回すことになる。

自分で選び取ることが楽しいことだと示し続けるために、つらいことから一生懸命に逃げるというのもいい手段だ。楽しめないことはやらない。楽しめることで生活を回す。一日中楽しい、というのをまずは目指す。それこそが、僕自身が欲する生活ではないか?

ところで、僕が楽しく生活することが全体主義への防御壁になる可能性を示唆したが、我ながらこの身振りは危険だと言わなければならない。というのも、自分の生活がより大きな善に結びついていると考えることほど陳腐な飛躍はないからだ。たとえば、自分の生活が苦しいのは政治に問題があるからだ、という主張をする人が(残念ながら僕の友達にも)いる。だが、そういう主張は明らかに飛躍しすぎている。生活の回し方自体がおかしかったり、自身の生活態度がおかしかったりするにすぎないのに、それがあたかも他人の——つまり政治の——せいであるかのように主張してしまう。それでは何も解決しない。自ら険しくて救いのない道に追い込まれているようにしか見えない。

僕の究極の目標が全体主義への抵抗なのかと問われれば、おおよそ半分くらいはそうである、答えるだろう。僕が真に目指しているのは、グッドバイブスな世界だ。グッドバイブスな世界という言葉で僕は何をイメージしているのか?それぞれがそれぞれに楽しく生きている世界だ。そこに僕は「家族」のモチーフを重ねている。それぞれがそれぞれに対して緩い役割(ある程度は属人的であり、ある程度は匿名的で交換可能な役割。たとえば、誰が夕ご飯を作ってもいいけれども、母親の味は母親にしか出せないし、家族のメンバーは母親の味を求めている)を持ちながら、それぞれ楽しい生き方ができるような、そんな世界。僕はそういう世界を作れると思う。そういうことならば得意だと思う。なにせ、自分が楽しむ、という仕方で、他人を楽しませるのが得意だからだ。狙ってやっているわけでもなく、自然にそうなってしまうことが多いように感じる。

だから、結局のところ、楽しんで生活することが僕の社会的な役割なのだと思う。楽しみをより多く見つけること。楽しみのオルタナティヴ(つまり、たぶん、消費の快楽だけではなく、生産の快楽)を示すこと。そういうある種のパフォーマンスを生きること。それこそが僕の「仕事」なのだ。とはいえ、たとえばYouTuberみたいに全てを劇場的に見せる必要は必ずしもない。たぶん、そこまでの体力と気力はない。ただ楽しく生きて、その楽しさを周りの人たちに伝播させる程度で十分だ。伝播の輪が少しずつでも大きくなればいい。その意味で、「楽しまねばならない」のだ。