しばらく原稿執筆に追われていて、自由に文章を書いている余裕がなかった。今日のゼミで発表させてもらって、たくさん叩いてもらった。今月下旬にある学会発表の原稿なのだが、どうやら話が大きすぎるようだ。もっと小さい話を細かくやった方が伝わるんじゃないか、少なくとも、デリダを専門としていない人に対してはクリアに説明しなきゃいけない——こういうコメントをもらった。たしかに、今日発表した原稿はスコープが大きすぎる。この規模ならば博論だって書けそうなほどである。少なくとも、修論よりも大きい話になってしまう。とはいえ、そういう大きなスコープで一度デリダを見渡してみる試み自体は良かった。このくらいの規模の話をすれば、博論に繋げられるのではないか、という希望が見えた。目の付け所は悪くない。
ずっと論文ばかり書いていて、頭が硬くなっている。脳の働きが凝ってしまって、ここ1週間くらいは仕方なくタバコに頼ってしまった。必ずしも悪いことだとも思っていないが、もっと楽しいことをした方がいいな、と思った。この自覚は二つのことを含意している。一つは、もっと楽しんで、楽しいやり方で哲学の論文を書いた方がいい、ということ。もう一つは、哲学ばかりやっていないで、もっと緩く自由に遊ぶ時間を作った方がいい、ということ。どちらも大事だ。
自由に遊ぶ、ということで、僕はいま、どういうことを考えうるだろうか。友達と曲を作るとか、YouTubeの動画を作るとか、そういうのは楽しめると思う。あるいは、天気のいい日に散歩デートなんかもいい。海の見えるお店で美味しいご飯を食べるのもいい。こういうのを土日にできると嬉しい。
時間を作りたい、とは常々考えているのだけれど、要するに、「定時出勤、定時退社、週休二日」みたいな規模感の努力がしたいのかもしれない。さすがに「クジゴジ」は長すぎるにしても、15-16時頃に退社して、あとは特に努力する必要もない、程度のプレッシャーの中で努力したい。遊びたい。いや、少し解像度が荒い。要するに、どれだけの努力をすれば成果が得られるのかが可視化されていてほしい、ということかもしれない。趣味ならばいい。果てしない哲学の海を漂うのも、好きなだけ時間を使って音楽を作るのもいい。けれども、仕事として、つまり、何らかのプレッシャーが課されている中での営為として挙げた成果に関しては、何らかのリターンがあってほしいのだ。
それでYouTubeを始めたのだった!論文に没頭しているうちにすっかり忘れていた!YouTubeを撮る、そしてアップする。多少の小遣いにでもなればいい。
いや、僕は大切なことを考えることから逃げている。またしても逃げている。何らかのリターンがほしい?僕は自分が何をほしいのか、まるで分かっていないじゃないか。そのことを考えなくてはいけない。ここのところ、「なぜ博士課程にまで進学したのか」ということを聞かれたり、自問したりする機会が増えている。自分でもよくわからないのだが、たぶん、ほとんど好奇心だけで進学したのだろう。好奇心というのは、その先に何があるか分からないから生まれるものだ。未知のものに出会いたい、そしてそれを理解したい——そういう思いでずっと勉強しているのだと思う。未知のものを理解するのは大いなる喜びだ。好奇心は人一倍強いと思う。けれども、好奇心が満たされるだけでは、満足がいかない。研究は好奇心をある程度までは——というのも、研究がなければもっと広く好奇心を発揮できる気がしている——満たしてくれる。しかし、たとえば研究が精神・頭脳的な営みだとして、身体的な営みも僕には必要なのだ。好奇心を満たすことが個人的な営みだとして、社会的な営みも僕には必要なのだ。
研究に文句を言っても仕方がない。何より、研究のことはそれなりに好きだと思う。問題は、それが生活の大部分を占めてしまっている状況だ。そして、それに報酬が期待されないことだ。最近、YouTubeで読書会ライブ配信をしようかと画策している。普通に継続性がありそうだし、勉強しているだけでコンテンツになるならお得だ。いつかやるかもしれない。
森もりが東京03のラジオにでた。NHKデビュー。すごい。ひそかに誇らしいのは、人間生活に出てくれたすぐあとにNHKラジオに出たことだ。人間生活の株も上がってしまうではないか!人気者になるということは、こうやって関わった人たちを喜ばせていくことなのだろうな、と感じた。僕は大してミーハーでもないし、芸能人の権威に憧れているわけでもないと思う。それでも、友人がどんどん大きくなっていくこと、有名な人たちの輪の中に入っていくこと、それは喜ばしいことだ。何より、彼が楽しそうに過ごしているのが嬉しい。楽しく努力することが仕事になっているということに憧れているのかもしれない。そして、僕にもできるかもしれない、と思わせてくれることが嬉しいのかもしれない。もちろん、お笑い芸人になることが、ではなく、楽しく努力することが、である。