2024/10/06

今日は昼間に予定がない。新学期はやはり疲れが溜まる。頭を切り替えなくてはいけなくて、たまたまタスクも重なってしまった。タスクがあること自体は悪いことではないのだが、自分で自分にプレッシャーをかけてしまっている気がする。まあ、それはそれで力が出るから、そういう時期もあっていい。今日みたいに息抜きできる日があれば大丈夫だ。

先日、自分の書いた哲学の発表原稿に指摘をもらって、どういうところを丁寧に書かなければいけないか、すごく勉強になった。読者/聴衆がどういうところでストレスを感じるか、というのを意識しながら書くように言われた。それで、昨日、他人の原稿を読んでみると、実際に読むストレスがどこで生じているかが見えてくる。自分のストレスに敏感になった。長らく、学問はストレスをかけていくことだと思っていた。難解な文章をいかに読むか、ということばかり考えていた。実際、デリダは概念の規定もしないで諄い(クドい)文章を書き連ねるわけで、それを読み解くのが学問だという気がしていた。だが、僕の場合はデリダを読むモチベーションがあるからいいものの(その意味では、デリダが課すストレスに耐える覚悟がある、と言ってもいい)、たとえば僕の読者・僕の聴衆は、必ずしも僕の論考を好意的に読み解くモチベーションはない。だから、ストレスをかけず、ずっと低カロリーで聞き・読み続けられるような文章を書かなければいけないのだ。読ませるということを考えるのならば。

論文はそうなのだ。だが、論文と哲学書を分けるとすると、哲学書は必ずしも低カロリーである必要はない。また、あらゆる芸術作品も、鑑賞するストレスを避ける必要はない。というか、芸術作品にストレスがないのならば、それは芸術作品としては基本的には失敗だろう。鑑賞してすぐに感動できてしまう、共感できてしまうような、そんな作品はあまりに陳腐だ。アンディ・ウォーホルは意識的に作品の負荷を減らしたアーティストだと思うが、あそこまで徹底的にやれば、かえってそれが負荷になる。芸術そのものを問い直させる、という意味で、鑑賞者が思いを巡らせるきっかけになるのだろう。

ここまで、「ストレス」とか「負荷」といった言葉を規定せずに使ってきたが、これらはようするに、ある作品に不可解な点があるがゆえに、鑑賞者にそこで立ち止まらせ、思いを巡らさせることになる、そのような力のことだ。多くの人に訴えかけるには、とりわけあまりにも情報が高速で駆け巡る現代においては、こういうストレスはかからない方が良いのだろう。すぐに納得し、共感し、笑えるような、そういうコンテンツが拡散には重要なのだ。ひょっとすると、ピカソが初期に非常に「上手な」絵を描いていたのは、その「良さ」「上手さ」が一見してすぐにわかるような作品だったからではないだろうか。なんの知名度もない若造がいきなり「ゲルニカ」を描いたとして、それを鑑賞しうる人に届くまでにはかなり時間がかかることになってしまうだろう。だから、先に「成功」し、ファンや支持者を獲得してから、自分の表現というものを追求するのは、まったく真っ当な手続きだったように感じる。

最近考えるのは、バラエティ番組にミュージシャンが出演することの必要性だ。あれは絶対に必要なのだ。露出を増やして、色々な表情や思いを見せて、それでようやく、その人の音楽を聴こうというモチベーションが醸成されるのだ。音楽好きの中には、ああいう「営業」が不純だと感じる人もいるかもしれない。だが、音楽を「聴く」という体験は、実際に音を耳に入れるというだけでは決してない。その音楽に出会い、その音楽を聴き、ひいてはその音楽を共有して語り合ったり、ファン同士で仲良くなったり、そういう一連の体験が音楽を「聴く」というものなのだ。

「営業」をやりたくないようなミュージシャンやアーティストもいるかもしれない。そのときは、「営業」をやらなくて済むような働き方を設計しなければならない。「営業」をやってくれる人と手を組むとか、パブリックに訴えかける手前でたくさんの仲間を作るとか、そういう別種の「営業」が必要なのであって、要するに商売をするというのはそういう活動を含むということなのだ。

そういう意識が強くなってきたからこそ、僕はYouTubeを始めたのだ。先日、ある哲学者の講演を聞く機会があったが、正直なところ、大した話をしていなかった。あるいは、「売れている」哲学書を読んでいても、「浅いなぁ」と感じることが多々ある。だが、彼らは哲学者であるよりもまず、商売人として振る舞っているのであり、それはそれで絶対に欠かせないことなのだ。商売を馬鹿にしてはいけない。どんなに軽薄な作品を生み出していようとも、彼らには彼らなりのやるべきことをやっているのだ。誰にも読まれない深淵な大著を書いているよりも、多くの人に読まれる軽薄な本の方がよほどリアリティがある。深淵な芸術家は軽薄な芸術家よりも優れている、ということは決してない。

僕自身について言えば、軽薄な振る舞いをしながら、ちゃんと深淵さを見通せているような、そういう活動をしたい。ポップだけど、ニッチを分かっている、そういう芸術家でありたい。たとえば星野源さんは、ニッチをポップに届けるという視点を持っていて、素晴らしいと思う。「深淵なことをやっている」という自意識があるかどうかは分からないが、軽薄さを身に纏う努力をしているのではないか。

僕は深淵さを軽薄に見せるスキルはない。そこはしっかり棲み分けて活動したい。一方で軽薄なことをやりながら、他方で深淵な作品を作る。それが差し当たりの方針で、だから、今までやってこなかった「軽薄」の努力をすることにしているのだ。