2024/10/11

新学期に入ってなかなか忙しい。ここで文章を書く余裕もあまり生まれていない。YouTubeの動画を作ったり、陶芸をしたり、Podcastを作ったり、もちろん研究をしたり、と忙しなく動いている。僕の目標は毎日コンテンツをアップできる日々だ。作品を作って、世に放つ。そのペースを上げていきたい。毎日は現実的じゃないな。週5あればすごいと思う。この文章みたいに作ってすぐにアップできるものから、論文みたいに何ヶ月、何年と時間をかけて、そのうえで世に放たれるものもある。その意味では、あまりペースにこだわっても仕方がないのかもしれない。本当は、毎日作り続けたいというだけなのだから。人前に出すというのは、作り続けるための土台づくりだ。僕の作品にお客さんがついてくれれば、作ること自体が、作ることを駆動する資金源になりうる。今日ちょうど、商売というものを真剣に考えた方が生活にリアリティが生まれる、という話をした。僕の生活にはリアリティがない。

「YouTubeの動画を作ったり、陶芸をしたり、Podcastを作ったり、もちろん研究をしたり」——ここで「もちろん」と言ってしまうのは、僕の強さだろうか?それとも弱さだろうか?この人生を賭けて研究をやっていくんだ、という意気込みならば強さかもしれない。今の身分があるのは、研究をやるという大義に完全に依存しているんだ、という引け目からくるのであれば、弱さだろう。そう、僕が今こうやってのうのうと暮らしているのは、研究をやるという大義があるからだ。じゃあ研究をやっていればいいじゃないか——という単純な話でもないのが難しいところである。というのも、たしかに研究をしていること自体が評価されることはあるのだけれど、現実問題、研究を職業としてあてにすることはできない。「研究で食っていくんだ」という気合いは、研究で食っていくための必要条件なのかもしれないが、十分条件では決してない。そう、ここから目を逸らしていない、という意味では、「YouTubeの動画を作ったり、陶芸をしたり、Podcastを作ったり、もちろん研究をしたり」と、手広く活動していることは強さとも言える。とりあえず、研究でしょ。みたいな悲観とも楽観とも知れない盲目を僕は持ち合わせていない。楽観的に研究に没頭している人がいたら、僕は彼/彼女に憧れることになるだろう。

毎回同じことを書いているのか?とふと不安になり、一旦ネットサーフィンに逃亡。そかし思い直す。ここでの僕の試みは、文章を止めない、ということであって、新しい文章を書くことでも、一般的な価値のある文章を書くことでもない。ただ書く、ということの実践なのだ。僕自身の、「無限に文章が書ける」という特殊能力を発揮していくだけの場なのだ。「無限に文章が書ける」という能力の要点は、自己検閲しないことにある。「前に書いたことがあるから」とか、「全然論理的じゃない」「おもしろくない」みたいな評価軸をまったく排除して、言葉を前に進めることが大事なのだ。Don’t stop the music.ビートは前に進むのである。僕が止まっても、止めようとしても、音楽は先に進む。そういう表現だとも言える。

だから、書き始める前には毎回、なんのプランもアイデアもない。断片的なものすらなく、エディタを開いてすぐに書き始める。日付を冒頭に記していながら、その日の出来事を書く「日記」の形式をとっているわけでもない。いや、しかし今日あったことを書いてもいいかもしれないな、とふと思ったりもする。

今日は忙しい日で、午前の授業が終わると、お昼を食べる暇もなく、お寺にお手伝いに行く。それからすぐに学校に戻って、もう一つ授業を受ける。お昼はちゃんとしたものを食べる余裕がないから、いつも肉まんを食べる。美味しいし、なんとなく栄養価が高そうな感じがするからだ。でも、さすがに足りず、最後の授業を受ける頃にはいつも空腹になっている。授業前にコンビニで何かつまむものを買っていく。今日はセブンイレブンでポテサラを選んだ。鰹節と水菜と煮卵が入っている。炭水化物もタンパク質も食物繊維も摂取できるという優れもの。これを新学期で混み合う中庭のベンチで食べた。美味しい。程よくお腹も満たされて、授業にもまずまずのコンディションで臨めた。

1週間の疲れも溜まっていて、昼過ぎから眠かった。ふと思ったのだが、昼過ぎに眠くなるのは寝るべきだからではないだろうか。心身が疲労していて、回復を求めている。眠いのは「寝てくれ」という身体からの合図だ。それを無視して起きているのは、夜更かしや徹夜と何も変わらないじゃないか。ちょっと頑張って起きていると眠くなくなってくるのも、徹夜明けの朝方に頭が冴えてくる気がする——あくまで「気がする」——のと全く一緒だ。やれやれ、システム化された社会の中で暮らすというのは、身体に悪いことなのかもしれない。

とはいえ、ずっと家でゴロゴロして、気が向いたら動く、みたいな怠惰な生活では、エネルギーが余ってしまう。エネルギーを使い果たすことが幸福の一つのあり方なのだとすれば、社会でちょっと無理をするくらいでちょうどいいのかもしれない。それこそ、本当にダメな時は身体がメッセージを発してくれる。風邪を引いたり、ぎっくり腰をやったり、あるいは鬱になったり——といったふうにグラデーションはあるだろうが、身体は無理矢理に機能停止してくれるのだから、よくできている。