2024/10/25

学会発表の準備で全然自分の文章が書けていなかった。だから辛かったのか、それとも単に発表の準備が辛かっただけなのか、分からない。いずれにせよ、原稿は終わったし、あとは発表してディスカッションするだけだ。

今日は久しぶりに大学でリラックスした会話を楽しめた。博士課程にもなると同期がほとんどいなくなってしまうのだ。いたとしても授業のスケジュールがかぶってなくて、会う機会がない。意識的に調整しないと会えないことになる。

専門が違う友人たちが何を考えているのかを知るのは面白いし、何よりもまず、院生の生活の愚痴を吐きあう時間は大事だ。心身が軽くなる。タフな1週間の最終日、タフな金曜日だが、疲れがいくらか吹き飛んだ。

この1週間で、畑をやるという意思が強固になってきている。「食っていく」ということを考えると、やはり食べ物を作るということになろう。いや、普通は働いてお金を稼いで……ということになるのかもしれないが、直接に食料を作る方がロックだ。もう「ロック」という語を半ばギャグ的に使っていこうと思っている。

最近、自分がギタリストのSlashだと思って過ごすことがある。やんちゃでゴキゲンで堂々としているあの感じ。ああいうふうに振る舞うのがロックなのかもしれない。

ロックでいるのは力んでいなくて良い。少なくとも僕は、ロックを聴いて育ってきたから、ロックが肌に馴染んでいる。ヒップホップやジャズも大好きだが、肌に馴染むという感じはあまりしない。

ロックにももちろん、肌に馴染まないものがある。ひさしぶりにRage Against The Machineを聴いてみたが、ピンと来なかった。なんだかリアルすぎると思った。ある種の使命感に駆られて、社会に対する怒りをぶつけているような印象がある。僕がロックに求めているのは、反抗ではなくて自由なのだ。気持ちよく歌い上げて、はしゃいでいてほしい。何も主張しなくて良い。ただ心地のいい音楽を心地のいいように演奏してくれるのが嬉しい。それも、エネルギーに溢れた、過剰な大人たちが。

珍しく文章が進まない。疲れているかもしれない。だから一段落が短いのだ。サクサク切って、次に行かないと息が続かない。

今日は図書館でジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』を借りてみた。フランス語の原書だ。暇があったので、中庭でパラパラ読んでみた。読める。結構読める。嬉しい。いままでフランス語に勤しんできてよかった。僕は哲学書をフランス語で読めるのだ。意外に思われるかもしれないが、哲学は語彙が少ない。「チーズ」とか「枝」とか「靴下」みたいな具体的な単語が出てこないからだ。だから、哲学書の困難は構文と内容自体なのだが、多少なりとも内容に見当がついていれば、割とすんなり読めてしまうものなのだ。

それにしても、読もうと思えば読めるのだというのは驚きだった。電車の中でフランス語の本を読んでかっこつけることだってできるのだ。どうだ!ロックだろ!

フランス語を読むのにも疲れて(というのも今日は朝からずっとフランス語を読んでいるのだ)、生協の書店に行ってみた。『神の亡霊』という本があって、まさに僕が研究しているテーマだと思った。しかも、デリダの名は注釈に一度出てくるだけだ。この本は全体として「神」を梃子に近代を再考するという企図で書かれているようだが、僕の研究が近代性に強く接近しうるのだとすれば、それは非常に興味深いことだ。「デリダ研究者」など自称しなくても、もっと広い視点で哲学することができるかもしれない。まだ読むには至っていないけれども。

もう2冊、気になる本があった。
①クンデラの『ほんとうの私』という小説。原題はL’identitéだそうだ。アイデンティティ。ちょっと踏み込んだ翻訳だ。そういえばクンデラはフランス語の作家なのか。東欧の出身だということは知っていたが、本の著者情報を立ち読みしてみると、チェコの出身だということが分かった。どういう経緯でフランス語で小説を書いているのかはちょっと分からなかった。すべての作品がフランス語なのかも分からない。気にはなるが、小説は一息に読んでしまわないと読みきれないので、いま読んでいるものが終わったら買うことにする。そういえば、この間、別の本屋で見つけたポーの短編集も面白そうだったな。
②デリダの『アデュー』という論考。デリダがレヴィナスの死に際して書いた一冊で、どうやら政治思想にも深く関わるらしい。レヴィナスを読むためのきっかけにしたいと思っていたところなのだが、いまはとりあえずナンシーを読むことにする。『アデュー』が気になったのは、岩波文庫で発売されたからだ。岩波の文庫にデリダが並ぶのは凄まじいことだ。読者が一気に増えることになるだろう。『アデュー』が読みやすい著作なのかは知らないけれど。レヴィナスは岩波文庫じゃないはずだし……。

読書の秋だ。研究じゃなくて読書をしようと思う。それは絶対に研究に役立つ。人生は長い。80歳くらいで深い洞察に達していればいいのだ。急ぐ必要はない、何事も。

人生は長い、という視点を採用することにした。ずっと人生はいつ終わるか分からない、という感覚で過ごしてきた。だから毎日、一歩でも先に進んで、後悔のないようにしようと意気込んできた。だが、これではあまりにも疲弊する。しかも経験上、ほとんどの——あるいは僕にとっては全ての——明日は人生の終わりではないのだ。だとすれば、一生をかけてじっくり物事と向き合うのが正しい。人生は長いと思って生活すると、日常の些細なストレスは大したことではなくなる。反対に、一生尾を引きそうな決断には慎重になる。大局的に日々の生活を捉えられるようになってきたような気がする。