昨日の朝、フットサルをして身体中がバキバキだ。まず、5分程度のゲームをアップがてらやっただけで息が切れた。体力がかなり落ちている。身体は使わないと錆びるのだと思い知らされた。逆に、こういうハードな運動を定期的にやっていれば、体力がつくだろうとも感じた。普段、頭ばかり使っている。思考する力はついているのかもしれないが、しかし全てのエネルギーは身体の体力に依存する。なかなか時間を作れずにいるが、たくさん身体を動かす生活をしようと思った。この時期、縄跳びなんかはいいかもしれない。勉強の休憩中なんかに。わざわざ着替えなくてもいいし、道具も縄だけでいい。カバンの中に忍ばせておけば、学校帰りにも運動できる。筋トレもいいが、息が上がるような運動も大事だ。
とはいえ、ずっと言い続けていることだが、縄跳びや筋トレのような、トレーニング的な運動は、やらないよりはマシとはいえ、あまり身体の要求に応えられるものではないと思う。身体や物体を移動させる、という要求/欲求を身体が持たない限りは、運動は身体にとって苦痛になってしまう。その点、スポーツはいい意味で「ムキ」になれるのが良い。ゲームに没頭することで、たとえばボールをゴールまで運びたい、という欲求が出てくる。そのための身体の運動になるわけだ。このとき、身体は動きたくて動いている。こういう機会を持つことが重要なのだろう。自分の欲求に従う運動。
これは頭脳労働でも一緒だ。何かを強いられて考えさせられたり、処理させられたりするとき、力は出てこない。たとえば僕は、2週間くらい公文式に通ったのだが、苦痛でしかなかった。実際、あれで処理能力はある程度あがるのかもしれないが、あのゲームは面白くなかった。のちに塾に通うようになって、もう少し複雑な問題を解いている方が面白かった。あるいは、頭を使うということでいえば、新聞に載っていた数独を解いたり、弟と将棋をしたりする方が面白かった。さらには、ポケモンのゲームをこの並びに含めても良いかもしれない。いずれにせよ、楽しいと思えるような頭の使い方をしているときが、一番能力を発揮できるのだろう。
そういう設計を日頃のタスクに導入すればいいのだ。最近は、かの有名な「ポモドーロ・テクニック」にハマっている。25分集中して5分休む、というサイクルを繰り返すやり方だ。それがやりやすいようなタイマーまで買った。このやり方ならば、タスクも面白がってやれる。25分でやり切りたいタスクを設定し、ゲーム的に集中する。本気で取り組んでみると、単純作業でも案外面白いものだ。ちなみに、単純作業でない、クリエイティヴな作業をやるときには、45分集中して15分休む、というサイクルを採用している。この二つの時間軸を導入したのは、前にもこのホームページで書いた『超ミニマル主義』の影響だ。
そういえば、平日はみっちり勉強をして、休日はちゃんと休む、というサイクルを試してみたが、ちょっと無理が出そうだ。というのも、平日にバイトをしたり陶芸に行ったりしているからだ。バイトも陶芸も一日がかりだから、その日はほとんど作業ができない。特にバイトがある週は、余った平日は一日しか生まれない。これではさすがに回るはずがない。ということで、土曜日にも作業をすることにしてみたのだが、昨日は午前中にフットサルでくたばってしまい、計画倒れ。フットサルは午後にやるのがいいのかもしれない。あるいは、もっと体力がついてくれば違うのかもしれないけれど、昨日のフットサル後はPCの画面を見ているだけでクラクラしてきた。
そう、こうやっていつも方法の調整をしているのだ。そんな僕にぴったりのイベントがある。今日、学術バーQで開催される「俺に研究のイロハを教えてくれ!バー」だ。研究をどういうふうに進めるか、ということについては、本当にたくさんのことを考えている。進まないという苦しみをいかに和らげるか、ということ、そして安定した生産をいかに維持するか、ということを考えながら研究している。今日は他の人の話も聞けるので、方法論を語り合いたいと思っている。(後日、このページに感想を書くつもり。)
方法論ばかり考えているのは、ひとえに僕が神経質で、ストレスをなるべく避けたいからだ。ストレスをなるべく避けたいというのは要するに、いつもコスパを求めてしまうということだ。ストレスに見合う快楽が見込めないのならば、そのストレス=コストを払う決断ができない。結果として、快楽の総量が減ってしまっていると思う。そこで、昨晩から「嬉しかったことノート」というのをつけることにしてみた。ちゃんと嬉しいという気持ち、快楽を見つめる。そうしないと脳が無駄なエネルギーを使い続けてしまう。仏教では一切皆苦と言われるが、苦から逃れることはできないのだ。それを最小限に止めようとするのは際限がない。むしろ、快に目を向けていた方が、脳が緊張しなくて良いではないか。そういう視点で生きていた方が、きっと幸せだ。
いちど、「良かったことノート」をやってみたことがあるが、続かなかった。というのも、「良かったこと」は他人の視点が入り込んでしまうからだ。たとえば嫌な仕事をやり遂げて、他人から褒められたとしよう。にもかかわらず、僕自身が満足していないとき、それは「良かったこと」ではあろうが、「嬉しかったこと」ではない。自分軸で嬉しかったことに向き合わなければ、「良かったけど苦しかったこと」ばかり評価してしまいそうだ。それでは全然幸せじゃない。「これは僕の人生なんだ」という自分軸での生き方を重視するようになったのは、またしても『超ミニマル主義』の影響なのだが、ようやくエゴが戻ってきた。とりあえず何らかのシステムに適合しなければならない、そのためのシステムを自ら構築しなければならない——そういうふうな頭になってしまっていた。他人のシステムに飲まれなくてもいいのだ。自分軸で幸せを見出していくこと、これこそがシステムの先にあるべきものなのだ。