自分が何を考えているのか分からなくなっている。あるいは何も考えていないから、筋道が見えていないのか。自分が何を考え、何を為そうとしているのか。こればかりは人と話さないと見えてこない気がする。
昨日、お寺を一緒に手伝っている方と少し話した。われわれは表現者として生きることで、何かしらの変化を世界にもたらすことができるのではないか、ということを彼は言っていた。「表現者」という単語は僕の語彙の中になかった。クリエイターとか、アーティストとか、そういう用語でものを考えていたけれども、たしかに、大きく言えば「表現者」だ。しかし表現者は何を表現するのだろうか?僕が表現者であるとしたら、何を表現できるだろうか?おそらく、「僕自身」を表現することはできない。自分が凡庸であることは分かっている。いや、この凡庸な至らなさならば表現する価値があるのか?「僕にしかできないこと」ではなくて、「僕ができることのすべて」を表現すれば、何かが変わるのだろうか?
だが、正直なところ、僕にはもう物を真剣に作るキャパシティがない。研究をして、バイトをして、というので精一杯だ。だからこそ、ここ最近はメリハリを意識しているのであって、夜や休日はしっかり休む・遊ぶ、ということを心がけているのだ。であれば、僕ができることは、自己治癒としての創作かもしれない。実際、先週からつけ始めた「嬉しかったこと日記」は僕を救ってくれている。毎日寝る前に、その日嬉しかったことを3つノートにまとめている。昨日の夜は、昔の坂口恭平さんの日記を見て焦ってしまった。彼はこんなにも広大なヴィジョンを持てているのに、僕は自分が何をしたいのかすら分からない。そういう焦燥感を、「嬉しかったこと日記」を見返すことで癒した。
僕が何をしたいのかが分からない、と書いたが、明らかに壮大なことを想定しすぎている。高校生の時に、次のようなことを書いた記憶がある——目の前のことより先の「やりたいこと」など知り得ない、だからキャリアプランなんか考えるのは愚かだ。たしかにそうかもしれない。目の前のことに没頭すること、それだけでいいのではないか。わざわざ引き合いに出す必然性もないが、Steve Jobsの « Connecting the dots »という考え方がある。真剣に一つずつ点(dot)を打っていくことが重要で、のちになってそれらは有機的に繋がってくる、というものだったと思う。最初から線で考えるのではなく、点の集積を信頼すること。僕にはこの態度が欠けていたかもしれない。忘れていた、というのが正しいだろうか。元来、戦略的な人間ではないのだ。戦略は他人に任せた方がいい。すべてを自分でやらなくてはならない、と思いすぎている。遠い将来に万能になれればいいのであって、そのためには、自分のひとつひとつの好奇心を日々深めてあげるしかない。満遍なくやろうとしてはダメだ。深く深く掘っていって、他の穴と地下水脈を共有していくイメージ。地下水脈に到達するには、好きなことに本気で取り組むのが一番早くて心地よいのではないか。