うちで飼っていた犬のモモ氏がわりと突然に死んでしまって、しばらく何も書けずにいた。大切な家族との別れについて書くほどには気持ちの整理がついていなかったし、書かずにいるのも不自然だと感じていたからだ。まだ別れは完全には済んでいない気がする。さっき昼寝をしていたら、足元にモモ氏がいて一緒に寝ている夢を見た。日常の端々で犬の痕跡があり、すべての生活の動線の中に犬への気遣いが伴っている。少しずつこの生活にも慣れていくのだろうが、しかし完全に慣れきってしまうことはないだろう。その意味で、完全な別れは永遠に訪れないということになる。この喪失感を誤魔化しながら、日々の生活を乗りこなしていくしかない。
とりあえず、もう悲しい別れのことについては書くまい。生活に没頭することでしか傷は癒えない。
とはいえ、しばらく書いていないと書く力は衰えている。リズムに身を任せてガーッと書くのが大事だ。ほとんどフリースタイルのラップなのだ。文章を書くことでも、哲学の研究でも、あるいは音楽の制作でも、僕の実践は、言葉を紡いでいくこと、そしてその中で見えてくる言葉それ自体の解体を示すことにあるように思う。最近、ひさしぶりにU_KNOW(ラップ:Miles Word, プロデュース: Olive Oil)のアルバムを聞き返している。Milesさんの歌詞が素晴らしい。聴感上の心地よさはもちろん、ラップなのにメッセージ/パッセージが途中で終わっていたり、言い淀んでいたりする箇所がある。あるいは、韻を踏む名詞を重ねて、それぞれの意味を宙に浮かせるようなリリックが多い。僕はラップをやってこなかったが、やるとしたらこういうことがやりたい。Milesさんに「伝えたいこと」みたいなものが明確にあるのかは分からないが、僕自身には「伝えたいこと」はまるでない。そういうある種の虚無が、言い淀みや言葉遊びで表現できるかもしれない。
先週末は師匠のAaron Choulaiさんのライブに行った。彼は現在オーストラリアで活動しており、自身のバンドを引き連れてライブをしていた。即興的なアンサンブルなのだが、ゲストとしてラッパーのKojoeさんと田中光さんがフィーチャーされており、非常に厚みのある音楽だった。中でも衝撃的だったのは、トランペット・リコーダー・サックスと即興で田中光さんのフリースタイルだ。言葉のイメージと音楽のダイナミクス、そして声や息の表現の真摯さ。圧倒された。「ラップ」の域を優に超えていた。田中さん自身が歌詞の中で言っていたように、田中さんの表現には嘘がない。ひたすら自分の内側から湧き出てくる言葉を、僕たちリスナーに贈り届けてくれる。僕自身も素直な賛辞で返したい——はじめてセザンヌの絵画を観たときと同じくらいの感動を覚えた。
こういう具合にラッパーたちに感動を覚えまくっている近頃だが、僕自身がラップを始めるかは分からない。ともあれ、やはり音楽を作るモチベーションは湧いてきていて、また曲作りに力を入れたい。問題なのは、曲作りは頭が疲れてしまうということだ。PCの画面と向き合って曲を作っていると、頭が疲れて身体が凝る。哲学に支障が出てしまう。PCを使わないでサンプラーで作業ができればいいのだけれど、あいにく資金がない。曲を作る生活にシフトするにはどうすればいいのだろう?作曲も哲学も持続的なものであるためには、心身を調整する必要がある。難しい課題だ。
とりあえず休日に曲を作っているが、ブランクが長くてなかなか納得できる作品ができない。文章の執筆と一緒で、鈍(なま)ってしまっている。対策もたぶん一緒で、ひたすら作る/書く しかないのだ。これは数の問題、量の問題である。
とりあえず、体力を温存するために旧Twitterはやめている。無闇に眼を使ってしまうと、本当に使いたいところで体力が持たなくなってしまう。優先順位をつけなければならない。だが、心身の疲労がピークに達する夜の時間は、優先順位に従うのが難しい。そういうコントロールが効かなくなってしまう。夜にスクリーンに囚われない生活をデザインしていきたい。それが長期的には作曲の持続にもつながるはずだ。