# 2025/03/31

朝のうちに音楽理論の解説チャンネルをYouTubeで観て、それから加湿器の掃除。手を動かすのは良い。手を動かさないと正気を保てないから、陶芸やら畑やらをやっているのかもしれない。もっと哲学に時間をかけたい思いはあるが、なかなか体力が持たない。最高度に集中して綿密な思考をするのは、長時間こなせる仕事ではない。誰からも強制も要求もされてないわけだし。たとえば将棋棋士はものすごく集中しているのだろうが、しかし対局の場が集中力を作動しているのだろう。そもそも、彼らの課題は目の前の盤面であって、人生をかけて概念体系を作り上げることではない。反対に、哲学の研究がもう少しパズル的・ゲーム的だったならば、もう少し高い集中力で臨めるのだろうが、しかしそれでは面白みもない気もする。まあ、亀の歩みで満足すれば良いのだろう。そのぶん、他の仕事にも注力するということだ。

寒暖差で疲れているのだろうか、全然頭が回らないので、少し昼寝をしてから研究をする。今日も読解が進んだ。テクストを読んで何も言いたくならないとき、テクストを読めていないと感じる。筆者と関心を共有できていない、あるいは何もかも分かった気になってしまっている。ある一文や一段落を読んで、明確じゃないところを突っ込んだり、そのテクストの背景に位置付けうる文脈を探ったりする作業が読解というものだ。何もコメントできないのは、全てがクリアだと感じてしまっているか、その背後にあるコンテクストが読み取れていないかのいずれかだ。形而上学の素晴らしいところは、あらゆるテクスト、あらゆるコンテクストと接続されうるところにある。すべての背景に形而上学がある。アリストテレスは形而上学を第一哲学と呼んだが、まさに、第一に形而上学があるのだ。僕が「XXの哲学」「XX論」みたいな各論的な哲学に批判的なのは、それらが往々にして形而上学に対する関係を顧慮していないように見えるからだ。各論に終始するとき、それでは、哲学とは何なのか?

いわゆる「大陸系」の哲学者に共感を覚えるのは、彼らがすべてを語ろうとするからである。形而上学から個別の問題まで、その世界観の整合性に一切妥協しない姿勢が好きだ。僕もジジイになるまでに、そういう視座を手に入れていたい。