2週間後の発表のための原稿執筆を始めた。春休みはずっと読解=インプットをしていたが、アウトプットに方向転換。哲学の原稿を書くのはいつも辛い。注意深く書かなければいけないから神経を使うし(本当は後から注意深く整えれば良いのだけれど、アイデアの段階で力んでしまう)、多くの決断をするから(何をどの順番で書くか、何を書かないか、どの文献に注目するか、等々)、非常に疲れる。今回はまさに「決断」をテーマに政治(のさわり)を論じようとしている。上手くいくかはわからないが、とりあえず手を動かすしかない。
執筆期間は本当に精神がすり減るので、ものすごく悲観的になる。たくさん睡眠をとって、運動をするしかない。ただでさえ新学期で疲れているのだから、なるべく省エネで生活する。そして省エネで執筆する。省エネで執筆するとはどういうことなのか、書きながら試していく。たぶん、プロセスにこだわれば良いのだと思う。とにかく文字を書いていく。クオリティは問わない。そういえば、修論はそうやって書いたのだった。執筆は指のダンスでしかない。そうやって割り切って文章を書き進める。ダンスを楽しむしかないのだ。
ここで毎日文章を書いているのも、実はダンスの実践になっている。何もテーマを決めずに書き始め、文字を前に進めていくことだけを主眼に置いている。もちろん、こうやって書いているから、後から思い出すエピソードもたくさんあるのだが、そういうのは潔く諦める。指が書きたがらなかったことは堂々と捨てる。原稿に関して言えば、あとからエディットするのだから、指が書きたがらなくても問題ない。思い出したら/思いついたら あとから書き加えれば良いのだ。指を信頼すること。これは昨日書いた、思考を物質化することと等しい。デリダの思考の中心には「エクリチュール」という概念があるが、これは思考の物質化を不可避のものとした洞察ではなかったか。頭で思考しない、というのを徹底する。物質で思考するのだ。
朝、大学に健康診断に向かう電車で、優雅にかぎ針で編み物をしている女性がいた。おそらく僕と同世代くらいだろう。ほとんどの人がスマホをいじっている車内で、彼女は真剣に物質と向き合っていた。僕が人を見て安心するのはこういう瞬間だ。人が物質と丁寧に付き合っているとき、心が安らぐ。僕自身は言語と日々向き合っているのだが、言語は物質のスピードを圧倒的に凌駕する。正直なところ、このスピード感に疲弊している。だから僕は早く大量に話す人が苦手だ(たぶん、僕自身がそうだからだ)。他方で物質はものすごくゆっくりだ。本当に少しずつしか物事は進まない。身の回りにいる陶芸家の先生たちがゆっくり作品を作っているのを見ると、僕の思考の「生き急いでいる」感が浮き彫りになる。物質の速度で生きれば良いのだ。彼らはそう教えてくれる。あるいは、編み物の女性は。
なぜこんなに長く書いているかというと、原稿を書きたくないからである。まあ、これは良い準備運動になっていると捉えることにしよう。物質の速度で思考すること——これを心がければ、執筆もそんなに悪くないことかもしれない。