大学時代のジャズ研のメンバーで羊肉を調理して食べる会をする。といっても、基本的に料理をするのは三國で、僕はずっと洗い物をしていた。ともあれ、非常に美味しいご飯を食べられて、大満足。人生において美味しいご飯を食べる以外に追い求めるべき幸福なんてないんじゃないかと思う。もちろん、美味しいご飯というのは、楽しいメンバーで、楽しい時間を過ごすということでもある。あるいはもっと抽象化してもいい。カロリーなんか摂取しなくても、ただ仲間たちと何かを「味わう」——時間を味わう、音楽を味わう、絵を、香りを、雰囲気を——ことができれば、人生はそれでいい。大きな目標も努力も、その結果手に入る達成も、それ自体では何の意味もない。それがなんらかの「味わい」を持っていないならば、努力なんてしなくていい。ベッドの温もりを味わっていた方がよほど幸せだろう。
上ではご飯のアナロジーを考えることで「味わい」=幸福について書いてみたつもりだが、料理と洗い物の関係も創作のアナロジーとして考えることができるかもしれない。要するに、作ったら片付ける、ということだ。作りっぱなしでは次の料理を楽しむことができない。味わって、ちゃんと片付ける。この「片付ける」という行為に該当するのがどんな振る舞いなのか、創造するたびに考えなければいけない。それが創造し続けるということだ。たとえば、本を書くときは、出版するということが「片付ける」に該当するかもしれない。もう書き直すことはできない、という状況を作ることで、次の作品を作ることができる。
いくつかのプロジェクトを並行してやることもあるだろう。そういうときには、自分が何枚のお皿を持っているのかを知る必要がある。そして使い終わった皿は片付けて、洗って再び使える状態にしなければならない。
創造生活は、そのときどきの味わいを得るための生活なのだろう。